宗教の危険性
ライフスペースという名前でしたか、またオウムに似た新興宗教が話題を振り撒いています。(うさんくさいサンスクリットの宗教用語を使うだけではなく、髪型も雰囲気も似ていますね。)
かつて宗教に寛容であり、「人間は何か宗教を信じたほうがよい。」と考えていた日本人は、オウムの事件以来、宗教に警戒するようになりました。
実は,これは正しい態度だと思います。
宗教はそもそも本質において「危険」なのです。
なぜならば、宗教とは、何が善であり何が悪であるかを決定するもので、それゆえに、独自の法を決定しようとする「革命行為」だからです。
ライフスペースの人々の死生観は、明らかに私たちのそれとは異なります。ミイラになった人間をまだ生きている。医者が死を宣告したものを死ではないという。
医者の処方よりも、頭をポンポンたたくことによって治癒できるという。
これは、明らかに、日本の中に独立国を作っていることであり、それゆえに、主権者である日本人は、彼らの死生観を許すことができないのです。もし許してしまえば、日本の法律や社会体制は無効であると彼らに認めていることになるからです。
「宗教は主権の主張である」ということを見ぬけなければ、私たちは、知らないうちに、法秩序をひっくり返されます。
オウムやライフスペースは幼稚な形で法秩序のすげかえをねらいましたが、18世紀から今日に至るまでのヒューマニズムは、非常に巧妙な方法で、キリスト教世界の法秩序を破壊してきました。
現在、逆に、キリスト教が法秩序に対する挑戦者の立場に立たされています。
再び、あの歴史を変革し、人々に政治的・精神的自由を与えてきたキリスト教の世界観に基づく法秩序を回復する働きが今日求められているのです。