奥山氏の文字通りの解釈法は滅びへの序章である
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O>「何だって、今が千年王国?」 と多くの読者方は驚かれたであろう。
というのは、読者方の多くは、聖書を「文字通り」信じているので、この「千年期」は、「サタンが縛られて」、「諸国の民を惑わすことがない」全き平和の時と信じているからである。(黙示録二〇・
1〜3)今の地上は、サタンが縛られているどころか、大暴れして、コソボ(これはクリスチャンがイスラムを殺している。セルビア人はギリシャ正教であり、アルバニア人はイスラムだから)、をはじめとする民族と民族の殺し合い、ナチスのユダヤ人大虐殺、スターリンの大虐殺、中国系共産党ポルポトの大虐殺、少し歴史を遡っただけでも、宗教改革後のカトリックとプロテスタントの血で血を洗う殺し合い、終わることのない国と国との戦争、宗教改革前のカトリックの堕落、法王と皇帝の醜悪な主導権闘争、――などなど、この世の悪を数え上げたら、紙とインクの方が先に尽きてしまうであろう。(一般的に、ポスト・ミレの人たちは、この矛盾を「良い麦と毒麦」の誓えで説明する。それにしても戦争と虐殺で覆われた千年王国を信じている他はない。またオーガスチンの主張は、第二コリント四章四節と矛盾する。縛られたはずのサタンが、なおも活動しているからである。そこで何とか神学でサタンを縛るため、コンスタンチヌス帝の回心の時、サタンは縛られた、という主張もある。またオーガスチンの主張はルカ十一章二〇節とも矛盾する。――後で詳述)
それを「千年王国」と言っているのが、ポスト・ミレの神学者たちなのだ。そしてそれは、主キリストの初臨と再臨の期間とうのだから、「文字通りの千年とは信じていない」のである(比喩的解釈)。
多くの読者の方は「どうして、そんな歪んだ考え方が出て来るの? どうして聖書を文字通り信じないの?」と疑問を持たれるであろう。
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T>聖書は聖書によって解釈するというのは、どこの神学校でも教えている基礎的な、正当な解釈法である。なぜならば、聖書以上の権威は存在しないからである。
聖書を解釈する場合に、読者の主観を優先させれば、百人が百通りの解釈をしてもよいということになる。これは、明らかに聖書が禁じている私的解釈である。
例えば、エデンの園において、エバはサタンと姦淫したのだ、と解釈する異端がある。この解釈が間違いであることを証明するには、聖書の他の個所を参照する以外に方法はない。
「え〜!エバがサタンと姦淫をした?そんなバカな!」では、批判にはならない。
なぜならば、批判をする人のより頼む基準は自分の常識でしかないからだ。
もちろん、聖書の他の個所において、姦淫したことを示唆する個所は皆無である。だから、聖書は聖書によって解釈するという解釈法を採用する人々も、この説に賛同しない。
聖書の一箇所から教理を作り出すことはできない。それに証拠を与える聖句がなければならない。他の聖書の個所を参照して、聖書全体と調和するかどうかチェックしなければならない。
さて、この意味において、奥山氏の解釈は、読者の常識や感覚に訴える方法であるので、間違った聖書解釈法なのだ。
「皆さん! コソボ紛争など忌まわしい現状を見れば、現在が千年王国などと考えられないでしょ? 違いますか?」と、読者の感覚や常識に訴えている。
こういう判断の方法を取ることが許されるならば、奥山氏の批判から逃れることのできる個所は存在しないといえるだろう。
「皆さん! イエスが死んだ後に復活したなんて信じられますか? 処女降誕や復活を信じているなんて、頭がおかしいんじゃないの?」
常識とか感覚に頼る聖書解釈法は、リベラル派と同じように、信仰を破壊する解釈法だ。だから、正統派に留まりたいと思うならば、こういった間違った解釈法を捨てなければならない。
自分の常識や感覚を優先するのは、傲慢だからである。
彼らは、「わたしの判断は常に正しい。たとえ、聖書が何と言っても、我々の判断は、常に優先されるべきである。」と考えている。聖書は、「己の知恵に頼るな。」と繰り返して述べている。真に謙遜な人は、自分の判断ではなく、聖書が何を言っているかに集中するものだ。
「えっ? サタンはすでに縛られているって?」と疑問が起きたら、「そんなバカな!」と言う前に、「聖書の他の個所は何と言っているだろうか。」と言って、聖書全体を調べなければならない。こういう態度が、「己の知恵に頼らない」謙遜な態度なのだ。
奥山氏のような、「文字通りの解釈法」を採用するプレ・ミレの人々は、現在におけるキリストの王権をも否定する。つまり、現在キリストが王であることを否定する。なぜならば、「世界を見渡せば、キリストが現在王であるなんて信じられない。」と考えるからである。そして、さらに、彼らは、「いや、むしろ、世界を支配しているのはサタンなのだ。」とすら言う。
「コソボ紛争をはじめとする民族と民族の殺し合い、ナチスのユダヤ人大虐殺、スターリンの大虐殺、中国系共産党ポルポトの大虐殺…。こういう出来事を見れば、とてもキリストが王として世界を支配しているなんて信じられません。いや、むしろ、世界においてこんな出来事が起こるのは、世界の王はサタンだからではないですか。」と。
このように自分の主観を絶対視するので、「わたしは天においても地においても一切の権威が与えられています。」や「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着」かれた、「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて…」、「御子は…、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」と言う聖句を無視する。
プレ・ミレを信じると、数多くの聖句を無視せざるを得なくなる。そして、誤謬の中で横車を押し、ついに、破滅に至る。
なぜならば、真理に逆らうことは、必ず破滅に至ると聖書が証言しているからである。
「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」(ローマ
1・18)「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」(ローマ
2・8)我々は、一日でも早く、誤謬から脱出して、滅びから逃れなければならない。
奥山氏の聖書解釈法に従い、真理を見ようとしなければ、我々は確実に神から「怒りと憤り」を下されるのだ。
頑固の行き着く先は、滅亡である。
01/08/04