字義的解釈の誤り

 

<ご質問>

 

 O師は、無千年王国説や後千年王国説は聖書を比喩的に解釈し、前千年王国説は文字通りに解釈しようとすると仰います。前千年王国説こそ真に聖書的な立場なのではないですか?

 

<お答え>

 

 聖書のあらゆる個所を文字通りに解釈することは不可能である。

 

 単純な例を出せば、十戒の中で「恵みは千代まで」(出エジプト20・6)とあるが、文字通り解釈して、一世代を30年として計算すると、恵みは30x1000=30000年後にまで及ぶことになる。これでは、プレ・ミレ(前千年王国説)が主張するように再臨が切迫しているとは言えなくなる。

 

 師はマタイ24章を終末預言と解釈しておられるが、文字通り解釈するという原則を貫くならば、「宮」は弟子たちが指差した宮であって、終末時に現われる宮ではないといわねばならない。ルカの並行個所、21・6ではさらにはっきりする。「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」 ここで、文字通り解釈するという原則を適用するならば、ルカにおける神殿崩壊の預言は、「あなたがたの見ている」神殿、つまり、弟子たちが見ていた当時建っていたヘロデの神殿についてであって、これから終末時に登場するとプレ・ミレの人々が言うところの神殿ではない。となれば、マタイ24章やルカ21章を終末預言と考えることはできなくなり大きな矛盾が生じる。

 

 さらに、百歩譲ってマタイ24章が終末預言だと認め、この神殿が終末時にもう一度登場する神殿であることを認めるならば、それでは、終末において動物犠牲制度は復活するのかという重大な疑問が生じる。神殿と動物犠牲制度は切り離して考えることはできない。なぜならば、神殿の構造は動物犠牲を前提としているからである。それならば、キリストの贖いとはいったい何だったのかということにならないだろうか。終末が来て、プレ・ミレが言うところの再臨後の千年王国が始まれば、キリストの十字架の贖いは不要になり、再び動物犠牲を捧げねばならず、我々の罪は動物によって贖われるということになるのか。祭壇が置かれるならば、その前に動物の贖いの血が注がれねばならないだろう。聖所と至聖所との間には、聖い神と贖われていない人とを隔てる隔ての幕が下ろされねばならないだろう。それでは、キリストの十字架によって神と人とを隔てる幕が切っておとされた(マタイ27・51)ことは無意味だったということになるのだろうか。キリストの贖罪によって、人は神と自由に交わりを持つことができるようになったことは、ふたたび振り出しに戻ったということなのだろうか。

 

 そもそも、「わたしは神殿を壊して三日でそれを建てる」(ヨハネ2・19)という言葉が「御自身の身体を指して言われた」(同21)と証言する聖書の証言をどうして無視するのだろうか。また、パウロがクリスチャンの身体を「聖霊の宮」(1コリント6・19)と呼んでいるのをどう考えるのか。「御父を礼拝するのが、この山ででもなくエルサレムでもないという時が来ます。」(ヨハネ4・21)という個所はどう解釈するのか。それとも終末になれば、聖霊の神殿となったクリスチャンが霊と誠とをもって礼拝するのでは足りなくて、エルサレムの石でできた神殿での礼拝も必要になるということなのだろうか。年に3回エルサレム巡礼が義務付けられるのだろうか。

 

 事実、プレ・ミレの総本山ダラス神学校の校長であったルイス・スペリー・チェイファーは、教会時代の後に「ユダヤ教が回復する」(Systematic Theology, 1948,Dispensationalism, p.46)と述べ、同じくダラス神学校のメリル・F・アンガーは、「キリストの再臨のとき、ユダヤ教の制度が回復する。それは・・・旧約聖書の時代よりもはるかに栄光と霊性に富むものとなるだろう。再建されたユダヤ教の中心は、千年王国の神殿であり、そこにおいてユダヤ教は最終的な発展を遂げるであろう。」(Bibliotheca Sacra, Jan.-March, 1950)と述べている。

 

 しかし、へブル人への手紙の著者は、はっきりと、「旧約聖書の動物犠牲制度はキリストにおいて成就され、もはや不要である」と述べている。

 

「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 」(10・10−14)

 

 永遠に全うされたものをどうして再び繰り返す必要があるのだろうか。いや、むしろ、聖書は、それらの空しいものに帰ってはならないと厳しく命じているのではないだろうか。

 

「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。・・・キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ4・9−10、5・1)

 

 千年王国の神殿におけるユダヤ教の犠牲制度の復活は、キリストの十字架を指し示す単なる記念であって、それが実質的な何かを意味していると考えることはできないと言うプレ・ミレの立場の人々もいる。スコフィールドは、「これらの捧げ物は、十字架を指し示す記念となるだろうということに疑念の余地はない。それは、旧い契約の下での捧げ物が十字架を待ち望んでいたのと同じである。」(Scofield Reference Bible, 1909, revised 1917.)と述べている。しかし、それはプレ・ミレの文字通りの解釈の原則から大きく外れることになる。プレ・ミレの人々はエゼキエル書40−48章を文字通り解釈することを主張するが、そのとおり文字通り解釈するならば、千年王国において、「ツァドクの子孫」が神殿において再び仕え、「罪のためのいけにえとして若い雄牛一頭」を捧げ「その血を取って、祭壇の四本の角と、台座の四隅と、回りのみぞにつけ、祭壇をきよめ、そのための《贖いをしなければならない》」ということになるからである(40・46、43・19−20)。

 

文字通りの解釈に固執することによって、マタイ24章が終末預言であるという主張が崩れるだけではなく、へブル書やガラテヤ書が厳に禁じているユダヤ教の犠牲制度への逆戻りを主張せざるを得なくなる。

 

 

 

 




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