制度的な教会を離れて救いは一切存在しない?

 

<ご質問>

「聖霊によって救われた個人の集まり→教会(エクレシア)」と一概に言ってはいけない。カトリックは教会を、「地上にある教会は聖霊によって立てられ、キリストと人間のとの仲保者でとされた」とした。カルヴァンは、それを正して「個人の救いは“聖霊”によるのであって、教会から受けるのではない」とした。しかし、けっして信仰を単なる個人的なものにしたのではなく<キリスト教綱要>の「教会論」の中で「教会を信徒の母」ととらえ「母の膝元を離れては罪の赦しの希望が何一つなく救いが何ら存在しない・・・・。教会からの分離はつねに滅びである」と述べている。聖霊が働いての救いは、教会からではなく、まさに個人的なものですが、教会が存在しないところから正しい信仰生まれない。召されたものの群れ→教会という図式を強調しすぎることで生まれたのが、無教会、バプテスト、他、組合教会である。

 

<お答え>

 「制度的な教会を離れて救いは一切存在しない」という意見は極端です。

 じゃあ、十字架のイエスの横にいた強盗は、救われなかったのですか?彼は、地方教会に属する時間はありませんでした。

 地方教会からの分離は「つねに滅び」なのであれば、ご指摘の無教会に属するすべてのキリストを救い主と告白する人々――内村鑑三、矢内原忠雄、高橋三郎など――はみな今地獄にいる、もしくは、これから地獄に行くのですか?

 私は、このような極端な地方教会尊重説を取ることはできません。

 聖書は、救いと滅びの基準を「人となって来たイエス・キリストを告白」するかどうかに置いています。

 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。」(第1ヨハネ4・2)

 もし地方教会からの分離が滅びなのであれば、「人は信仰によってのみ救われる」という信仰義認の教理はカルヴァンにおいては、「人は信仰と地方教会に所属することによってのみ救われる」ということになるのでしょうか?

 「教会が存在しないところから正しい信仰生まれない。」ということと、「教会を離れて救いは一切存在しない」ということとは、天と地ほど大きな差があります。

 「イエス・キリストを主と告白する」クリスチャンは、教会を離れるべきではない。教会を離れると正しい信仰から逸れやすい、ということは言えます。

 また、もし、その教会を離れたクリスチャンが、「教会の戒規を受けて」離れた場合、つまり、除名になった場合、そのクリスチャンは滅びに至ります。

 それは、「あなたがたがつなぐときに、天においてもつながれており、あなたがたが解くときに、天においても解かれている。」と言われているからです。しかし、それにしても、その教会が正しい基準で戒規を施行した場合に限ります。教会はしばしば誤るものであり、教会員を除名する際に、間違った基準を適用して追い出すことがあるからです。

 正しい基準と手続きによって除名した場合、つまり、その教会員が「聖書の教えにそむく」罪を犯し、その罪を悔い改めず、再三にわたる警告も無視しているならば、その除名は有効です。

 しかし、その教会員が「聖書の教えにそむく」罪を犯していないならば、その除名は無効です。例えば、最近私の友人が教会を除名になりましたが、その理由は「その教団のトップの意見と違うことを言ったから」ということだけでした。その友人の意見は、きわめて聖書的であり、何も間違いはありません。聖書から証明できる教えを述べたのですが、その教会のほうが聖書的ではなく、教団のトップの意見を神の声であるかのようにみなしているため、聖書から意見を言う人を煙たがったというだけなのです。

 このように、地方教会は全能でも全知でも白紙委任状を持つ者でもないのですから、自分の教会から離れたならば、その人間を認めない、だからそいつは除名だ、というような傲慢な態度ではかえってその教会が神から除名にされてしまいます。

 そもそも、ある教会員が教会を離れた理由が、もっぱらその個人にあるという結論を出す前に、その個人と充分な話し合いをしたのか、そういった愛のある態度でその相手に接したのか、という点を十分に反省しなければならないケースが多いように思えます。ある教会では、自分から悔い改めに行った個人を逆に長老会にかけて詰問して、その罪の告白を意図的にゆがめた上で全教会員の前で発表するという愛とはほど遠いことを行い、その教会員の信頼を完全に失ってしまいました。

だから、地方教会の決定がすべてであるというような盲目的な教会全権委任論に流れる傾向がある教会論には注意が必要だと思います。

 

 

 




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