キリストの復活について

by starman氏

HPを通していつも貴重なメッセージを頂き、感謝しております。
今年のイースターはもう過ぎましたが、クリスチャンにとってのキリストの復活について、普段から考えていることを少し書かせていただきます。

私はイエス・キリストを自分自身の救い主として受け入れた時、聖書の記事は全て事実であると信じました。(認めたと言った方が良いかも知れません。)

つまり、創世記の創造の記事や、ノアの大洪水。洪水前の人達の年齢が900歳あまり達していたこと。その他の数々の奇跡。そしてイエス・キリストの処女降誕は全て歴史上実際に起こった事だと信じたわけです。

そしてこれらが本当に確かなことだという確証を与えてくれるのが、イエス・キリストの復活です。

もちろん復活は非合理なことですから、死後3日経った人間が生き返るわけがないと断ずるのが一般的でしょう。いわゆる科学的には「キリストの復活を支持しない」ということでしょうか。

しかし、聖書はキリストの復活を証言しており、これを信じるに足りる十分な記事がありますから、これを事実として受け入れているわけでして、架空の作り話を自分の都合で信じ込んでいるわけではありません。

非キリスト教徒がこのような信仰を嘲笑うことは巷間よく見かけますが、これはある意味仕方がない面があるとは思います。しかし、仮にもキリスト教徒を名乗る者が、こういった聖書の奇跡に関する記事を懐疑し、認めず、信じず、受け入れず、あまつさえ、創世記は神話であり、キリストの復活は心のガリラヤにおける体験であって、実際に復活があったかどうかはどうでもよいことだなどと言っているのには呆れるのを通り越して、そら恐ろしいものを感じます。

このようないわゆるキリスト教リベラル信仰の教師達がもたらした影響というのは非常に大きいものがあると思います。今だに文書資料説を持ち出してJだのPだの言ったり、聖書はどうしようもない誤謬に満ちているとか、「聖書の逐語解釈は500年前に否定された」などと主張する者があとを絶ちません。

聖書に書かれているイエス・キリストの復活が作り話であったならば、聖書の他の箇所に説明のつかない事がたくさんあります。
イエス・キリストの復活が歴史上実際に起こった事だからこそ、創世記も神話などではないし、数々の奇跡や預言も実際的なこととして受け入れられるわけです。

遠藤周作がイエスの生涯という本で、イエス復活の謎として次のように書いてます。
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  一体、あれだけイエスの生前、師の考えや気持ちも理解できず、ぐうたらだった
  弟子たちが、なぜ、立ちなおったのか。イエス最後の時、彼を見棄てたほどの弱
  虫たちが、師の死後、なぜ、強い意志と信仰の持ち主になったのか。

 また、エマオの途上でふたりの弟子たちに現れたことについて、

  「弟子たちにはイエスが死んでも、自分たちのそばにいるという生き生きとした
  感情がいつの間にか生まれたにちがいない。それは抽象的な概念ではなく、文字
  通り具体的な感情だった。イエスは死んでいない。自分たちになお語りかけてい
  るという気持ちは事実だったのだ。」

と言ってます。

さらに、

  「なぜなら復活という荒唐無稽な、ありうべからざる出来事は信仰者ならざる者に
  は幻想とか幻覚としか考えられぬであろうからである。それは聖書歴史家も実証し
  えぬことであり、彼等はブルトマンが言ったように「イエスは(弟子たちの)信仰
  において甦られた」といか言いようがないであろう。」
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ほかにも弟子達がキリスト復活のあと、どうしてあんなに変わったのか、その原因を考察し縷々述べてますが、結局はわからないようです。

イエス・キリストの弟子たちがなぜあんなに変わったかというのうは至極簡単な事です。
キリストは“実際に”よみがえったのです。心の中の体験ではないのです。
弟子たちはよみがえったイエス・キリストに“実際”に会ったからこそ、あのように変わったのです。

キリストの復活が単なる作り話ならば、我々の信仰に普遍的な意味はないし、パウロが言ったように私たちは未だに罪の中にいることになります。
先に引用した遠藤周作の聖書解釈のように、復活は心や信仰上の体験だというのならば、客観的な罪の赦しの確証は何処にもなく、本当に救われるのか?ということは誰にもわからないことになります。
そうなると世にある宗教と五十歩百歩で、キリストが実際に十字架に架かって死んだことも単なる事件にすぎず、各人がそれぞれ好きなように意味づけをし、自己満足しているだけということになります。
私はこのような信仰をあざ笑うつもりは毛頭ありませんが、少なくとも、“実際”に復活しなかったキリストが、“実際”に私たちを救えるわけがないということはハッキリと申し上げたいと思います。

聖書を援用するヒューマニズムやリベラル信仰は、創造者なる神を排し、救い主イエス・キリストを排し、罪の赦しを実質のないキャッチコピーに変えてしまう害毒だと思います。

私はクリスチャンになりたての頃、「クリスチャンとは、聖書の復活記事を歴史的事実だと信じ受け入れる者だ」と、当然に思ってました。しかし、そのうちに“異端”の存在を知り、リベラルな信仰を知るに及び、クリスチャンと称する者は多いけれど中身は様々だなあということを知りました。

そのようなわけですからtomi先生がこのHPを通し、聖書を「生ける神の言葉」としてハッキリと主張しておられることは、とても意義のあることだと思います。
先生の御働きに神様の祝福がありますようにお祈り申し上げます。

 

 

02/04/18

 

 

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