人の献身を邪魔してはならない

 

大学を終えて、私が献身しようとしたところ、クリスチャンの先輩(B氏)から、「献身しちゃだめだ。」と言われた。

「君は先生に向いている。牧師には向いていない。」ということだった。

このことがあって、私は、献身については最後まで及び腰だった。自分の判断で勝手に神の働きをしてはならないと思ったからだ。

神からの明確な召命がなければ神学校には行くべきではないと考えた。それで普通の就職をしたのだ。

しかし、この就職は私にとって非常に利益があった。仕事でソ連に派遣されたからだ。ソ連で共産社会というものを見ることができたことは、後々私の考えを形成するのに役立った。

回り道をしたのは、ある意味において益となった。

この先輩の教会の牧師(N師)は、人の献身を断るので有名だった。彼は、献身しようと申し出ると、逃げまわった。話が献身に及ぶようになると、話題をそらした(軽軽しい献身かどうか試すためであったかもしれないが)。

この教会に通っていたもう一人の先輩(T氏)が、N師に献身を申し出ると、相変わらず逃げ回り、巧みに話題をそらした。しかし、それでも献身を申し出て、神学校へ通った。

さて、先に私の献身を邪魔した先輩B氏も、「T氏は牧師に向いていない。献身には反対だ。」と盛んに言っていた。

さんざん反対されたT氏は、それでも意志を貫いて、神学校を卒業し、外国の神学校で博士号を取り、現在では、日本で中心的な神学校の教授である。

かたや、B氏もN師の強力な推薦で外国の神学校に行ったが、結局学位を取ることはできず、教職者として迎えられることはなかった。

人間の目で人の献身に反対するのがいかに神の国にとって有害であるかを私はその他にも多く見てきた。

「牧師に向いているか向いていないか」なんて、どうして分かるのだろうか?

こういった判断をする人の特徴は、「神の思いは人間の思いとは違う」ということが全く分かっていないことにある。

今、私は、教師にならなくてよかったと思っている。なぜならば、英語を教えていても、まったく興味が湧かないからだ。予備校で10年くらい教えていたが、苦痛で仕方がなかった。実質的にある地方校の3分の1の授業を担当していたが、「自分の仕事ではない。御金をもらうためだ」と我慢していた。

献身をして、私は、本来の道に戻った感じがしてほっとした。そして、次々といろんなチャンスが巡ってきた。

誰が献身すべきで、誰が献身すべきでないか、誰が牧師になるべきで、誰が牧師になるべきでないか、などと軽軽しく口にするのは傲慢のきわみである。

我々は、誰かが「神のために何かをしたい」と申し出たら、厳粛な気持ちで、謙遜の限りをつくして、吟味しなければならない。なぜならば、自分の言葉によって、神の働きを邪魔することになりかねないからだ。

もちろん、ホイホイと誰でもかれでも受け入れるのも問題だが、「あなたは献身すべきではない。」とか「こんな働きは、やっても無駄だよ。」などと軽がるしく言うものではない。

その思いが神から出ているかもしれないではないか!

神の御業を邪魔する者になって呪いを受けたくないなら、そういう軽挙妄動を慎むべきだ。

 

 

02/03/30

 

 

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