W.ゲイリー・クランプトン
19世紀になって登場した新しい翻訳の英語聖書(ASV, RSV, NASV, NIVなど)のほとんどは、アレクサンドリアン・テキストと呼ばれるギリシャ語テキストに基づいている。これは、レシーブド・テキストと呼ばれるキング・ジェームズ訳の元本となったギリシャ語テキストとは5000以上もの個所において相違がある。
この新しい翻訳の英語聖書は、19世紀及び20世紀初頭にエジプトで発見された初期のギリシャ語写本(特に、ヴァチカン写本とシナイ写本、その中でもヴァチカン写本)に大きく依存している。「これらの写本は年代が古いため、他の写本よりも信頼性がある」とする学説を広めたのは、B.F.ウェストコットとF.J.A.ホートであった。しかし、これらの写本の間においても、互いに多くの点において違いがあるのだ。
ウェストコット=ホート理論は、さらに次のように主張する。「アレクサンドリア写本群とは異なり、レシーブド・テキストに代表されるギリシャ語写本の大部分(80から90%)は、その本質的な部分において互いに一致している。これは、4世紀に徹底した編集が加えられたからであって、このことのゆえに、これらに信頼を置くことはできないと言える。」と。しかし、これを真っ向から否定する見解も存在する。事実、アレクサンドリア写本群が意図的な改竄を施された文書であることを示す証拠が存在する。そして、この入念な改竄こそが、なぜこの文書群が互いに大きく相違しているかを説明している。
最近、「古い写本よりも、一般写本のほうが信憑性がある」と主張する新約聖書学者のグループが現われた。これは、マジョリティー・テキスト理論とか、ビザンチン・テキスト理論、トラディショナル・テキスト理論と呼ばれている。レシーブド・テキストは、マジョリティー・テキストの写本に属しているが、完全に一致しているわけではない。
ウェストコット=ホート理論は、「写本は、数ではなく、質である」という。つまり、マジョリティー・テキストの写本群はすべて、同一の祖先を持ち、そこから派生しているのだから、それらの多くは信頼に値しない、という。それに対して、トラディショナル・テキスト理論は、「年代が古いことは、写本がいくつ存在するかということほど重要ではない」とする。第一に、あるテキストが他のテキストよりも古いからと言って前者が後者よりも優れていると言うことはけっしてできない。古いテキストそのものが正しくない場合もあるからである。それに、最近、テキストそのものの証言が重視されるようになって、マジョリティー・テキストの年代が少なくともヴァチカン写本やシナイ写本の時代までさかのぼるということが明らかになっている。マジョリティー・テキストの初期の写本がまったく存在しないのは、明らかに次の理由からだろう。(1)初期アレクサンドリア写本が発見された地であるエジプトの気候は乾燥しており、テキストの生存寿命が長い。(2)エジプトの写本は誤謬が多かったために、恐らくあまり使用されず、寿命が延びた。これに対して、マジョリティー写本は頻繁に利用されたので「傷みが激しく寿命が短かった」。
第二に、もしマジョリティー・テキストについて言われるように、「多数の写本群が類似しているのは、それらが同一の祖先を持つからだ」というならば、「数が多いということは重要ではない」とは必ずしも言えない。なぜならば、写本の数の多さは、「当時の写本記者が、その元本を原典にもっとも忠実な写本と考えていた」ことを示している、と当然考えられるからである。写本の数が少ないのは、恐らく、その元本が写本記者から信頼されていなかったからだろう。数の少なさは、その内容の不完全さを示している。
さらに言えば、「写本の大多数はすべて共通の親から生まれた」と結論することはできない。事実、マジョリティー・テキストに属する文書は、キリスト教圏の、実に多種多様な地域から集められており、それらが互いに血縁の関係にあったと考えることはできないし、このことを示す強力な証拠は確かに存在する。
第三に、教会は、宗教改革が始まる以前、千年以上もの間、マジョリティー・テキストを使用していた。宗教改革の教会は、さらに350年間、このテキストを使用していた(現在でも使用している教会がある)。もし、ウェストコット=ホートの意見にしたがってアレクサンドリア写本を利用する学者が正しいとしたら、教会は、千五百年もの間――つまりその歴史のほとんどを――神の御言葉なしで過ごしたということになる。となれば、神は新約聖書を「その深い配慮と御摂理をもってあらゆる時代に純粋に保たれた」(ウェストミンスター信仰告白)ということは言えなくなる。
恐らく、この問題が最も顕著に現われる個所は、マルコ福音書の末尾であろう。アレクサンドリア・テキストに従う訳では、9-20節は括弧に入れられている。というのも、シナイ写本もヴァチカン写本もこの個所を含めておらず、それゆえ、原本に含まれていなかったと考えられているからである。しかし、他のほとんどすべてのマルコ福音書写本にはこの節が含まれている。アレクサンドリア・テキスト支持者たちの一般理論では、次のように言われている。すなわち、「何らかの方法で、マルコ福音書の末尾の部分が原本から切り離されて、失われた。我々が今日持っている9-20節は後世の編集者の加筆である。」と。
アレクサンドリア・テキストの支持者は、事実上、我々に「神は聖書の本文が切り取られるのを阻止できなかったか、阻止するつもりがなかったのだ」と信じさせているのである(彼らはけっしてこのようには述べようとはしないが)。そうなると、我々は、「神は『あらゆる時代に』御自身の御言葉のこの部分を、御摂理によって『純粋に保つ』ことをされた」と言うことができなくなる。そして、さらに、もしマルコ16:9-20が失われているとするならば、イエスがマタイ5:18において言われた御言葉(「天地が滅び失せない限り、またすべてのことが成就しない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはない。」)は誤りであったとすら言わねばならなくなる。
すでに触れたように、本文批評は16世紀に始まった。宗教改革者たちはこの学問を知っていた。「sola Scripture(聖書のみ)」の原則を信じていた彼らは、次のことを強力に主張する人々であった。すなわち、「現在自分たちが所有している大多数の写本(これらは基本的な部分において相互に一致している)において、神は御自身の御言葉を安全に保っておられる」と。他方、ローマ・カトリックは、「sola Scripture」の原則に反駁するために、相互に違いのある少数の写本を使用していた。彼らは「神の御言葉がどれであり、どれではないかを誤りなく指摘できる無謬の教会がなければ、人は、聖書の真の本文がどれであるかについて確信を持つことはできないのである」と言うのであった。ローマ・カトリックは、実に数多くの相違点がある二三の孤立的な写本を選び、基本的な一致を示す大多数の写本を拒絶していた。他方、宗教改革者たちの大多数は、それとは逆の選択をしていた。
19世紀の本文批評は、この意味において、宗教改革者たちにではなく、ローマ・カトリックにしたがっていた。これは、概して、教会を誤らせる元凶となってきた。新しい翻訳聖書が依拠している少数のテキストは、キング・ジェームズ訳やニュー・キング・ジェームズ訳が依拠している大多数のテキストよりも優れていると言われてきたのだが、もし本論考が提供しているデータが正確であるならば、それは誤解であったといわねばならない。ウェストコット=ホート理論に頼ることはできない。ピッカリングが述べているように、「それはあらゆる点において論証されていない」。
筆者は、ダグラス・ウィルソンの次の言葉に同意する。すなわち、「本文批評学に対しては2種類の取り組み方しかない。一つは、宗教改革のそれであり、『神が歴史の全ての時期において御言葉を誤りなく守ってくださった』ことを信じる方法である。これは信仰的立場、すなわち神への信頼に基づく立場である。もう一つは、ローマ・カトリックの立場であり、新しい翻訳聖書が採用した立場である。『これは、聖書のオリジナルのテキストがどれであるかを決定するのは人間であり、中立的・学問的・科学的な手段を通じて行われるべきであるとする立場である。これも信仰的立場である。すなわち、人間への信頼に基づく立場である。』」
ここで我々が取り組んでいる問題は、けっして小さな問題ではない。つまり、我々は、神の御言葉を扱っている。翻訳が正確であるかどうかに注意を払うだけでは十分ではない。その翻訳聖書の基礎となっているギリシャ語テキストも正確でなければならない。新しい翻訳聖書は、不正確なギリシャ語テキストを使用している。マジョリティー・テキストこそが優れたテキストであり、翻訳は、アレキサンドリア・テキストではなく、マジョリティー・テキストに基づいて行われるべきである。
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Gary Crampton, "The Original Manuscripts, Translations, and The Majority Text" in Chalcedon Report, No. 353, December 1994, pp.24-25. の翻訳。前半省略。 This essay was translated by the permission of the Chalcedon.
現代聖書翻訳の父ウェストコットとホートの正体