1 偶然が事の始まり
【 手 紙 】
光陰矢の如しと申しますが、歳を重ねるごとにその思いが深くなります。今日はもう十一月の七日、暦の上では立冬、テレビに写る札幌の雪景色を見ながら、姉上の事を偲んでおります。
先日、楽しみにしておりました旅行(十月十六日出発予定でした)足の怪我にて不可能となり、目の前が真っ暗になりました。
全治三ヵ月との事でしたが、北陸の気候を考えると来春を待つ事になりそうです。
思ったより痛みも少なく患部の腫れも引いてまいりましたので、外科の先生は反対されたのですが、思い切って十月二十三日に出発することにいたしました。
【モノローグ】
話は六ヵ月前に遡る。
川口氏が親しくしていらっしゃるかたに、棟方さんご一家があった。
【 手 紙 】
・・・版画家として著名な棟方志功御一族の方でかねてより歴史に興味を持たれ、先日もご一家のルーツを尋ねて青森までお出かけになったとのこと、「私どもの祖父も青森の弘前なんですよ。姓は溝江…」と申し上げますと、ご自分の系図の中にも溝江氏との関わりが有ったはずといわれ、近いうちにもう一度弘前まで出かける用が有るので、詳しく調べて来てあげようとのこと、楽しみにしておりました所、弘前図書館の古文書の中から『溝江家由緒書』を探しだし、写して来て下さいました。
それによれば、我が家のご先祖様は越前の国主朝倉義景の実弟大炊之助景勝で、越前溝江庄を預かり、その溝江を姓としたこと、越前金沢城を築き居城としたこと、朝倉氏滅亡後青森に逃れ、津軽家に家臣として抱えられたこと、同藩の重臣として明治維新を迎え、北海道に移住したこと、棟方家と溝江家は姻戚関係にあること等がわかったのです。
とはいっても、私は今まであまり家系等と言うものに興味はなく、越前が日本のどのあたりで、朝倉家がどういう一族なのか全く知りませんでしたので、その時はただ、棟方様と縁続きであったことの不思議な偶然に驚くばかりでしたが、「朝倉」という言葉の響になぜか心引かれ、越前の国主といわれるからにはきっと偉い人だったのではと思いまして、歴史のことなら堀井さんにお聞きしてみては、ということになりました。
【モノローグ】
『続・群書類従』「朝倉系図」に景勝の名は見えない。
しかし、越前一乗谷を朝倉本家の根拠地と見た場合溝江庄は加越国境を守る要衝であり、また、この地域一帯が古来有数の産鉄地帯である事等から見ても、ここを預かる溝江氏が、朝倉の一族であった可能性は高いと思われる。
越前金沢城に関しては金津城の誤記かと考えた。
しかし、天保年間に記された『改正三河後風土記』にも越前金沢城とあり、江戸時代、金津を金沢と誤ったまま、巷間に伝わっていたとも考えられる。
『津軽溝江家由緒書』は、多分江戸時代中期あたりに家臣それぞれの由緒提出という藩命があり、それによってまとめられたものではないかと思われるが、そのとき、巷説に従って金沢としたのかも知れない。
【 会 話 】
溝江春子さんはM・川口氏はK・堀井はHと略記
K「堀井さん、越前の朝倉氏のこと知ってる?」
H「詳しいとは言えないけど、どうして?」
K「実は我が家のご先祖様らしいんだけど」
H「本当?それは大変だ。越前って言うと福井。朝倉氏は戦国時代、その全域を支配する大名だった」
K「……って言うと?」
H「武田信玄・上杉謙信。同じクラスかな」
K「……」
H「それだけじゃない。
朝倉氏は但馬の日下部氏の出で、日下部一族は古代史の世界では謎の氏族だけど、何て説明すればいいのかな……例えば日本の古代国家を最初に造り上げたのは、この一族らしい」
K「……」
H「少なくとも、古代史の謎を解く一番重要な鍵を握っているのは日下部氏じゃないかと思うんだ」
K「……福井って、どのあたりだっけ」
H「……今度地図を持ってきて説明する。
たまたま近い内にその福井へ行く事になっているんだ。お土産に一乗谷朝倉遺跡の写真、撮ってきてあげるよ」
注・日下部というのは部民制成立後の呼び名で、正しくは(日下)とするべきであろうが、本稿では後世の代表的な呼び名、(日下部)で統一する。
【 モノローグ 】
まづここに大きな「偶然」が顔を見せた。
私がここ数年、丹後半島の古代史、ひいては日下部一族の歴史に集中している事は、『古代史ファン』同人の諸兄姉ならばご存じのことと思う。
幾内王権(天皇家〉成立伝承としては神武東遷の物語を『古事記・日本書紀』(以下記紀と略記)に見ることが出来るが、この伝承の当否は別として、古代、九州から東へ移動した集団が畿内に定着、そこに原始的な王権を樹立したことは事実であろう。
しかし、神武東遷以前すでに畿内に移住し、各所にそれぞれの勢力圏を造り上げていた幾つかのグループが存在したこと、これも遺跡の状況等から推定されている。
この、初期移住グループの内で、最も早い時代、第一次移住集団の中心部族を、私は天火明命を祖神として祀る一団であったと仮定し、その核となっていたのが日下部氏ではなかったか、と考えるのである。(拙稿『古代丹後王国の実像』「古代史ファン」37・39・45号参照) この集団は九州西部を起点とし、日本海沿岸部と瀬戸内海の二手に分かれて東上、丹後半島と畿内・河内に定着、そこに原始的な共同生活単位(クニ)をきずいた。 まだ論証には程遠いが、私は、この日下部一族が日本の古代国家創世に大きな役割を務め、その後も繰り返される動乱の中で、常に国家の命運を左右する位置を占め続けたと想定するのである。
日下部氏は全国に分布する大族であるが、その足跡を辿ると、いずれも鉱物資源の豊富な地域にその伝承が集中する。
日下部系国造伝承を残す但馬・伊豆・甲斐等、いずれも国内有数の鉱山地帯であった。古代、日下部一族の繁栄を支えたのは、彼等のもつ鉱山技術ではなかったか。
当時、いち早く砂鉄・銅等の精錬に携わり、やがて金・銀等、非鉄金属の価値が定まり始めた頃、山岳修験者・丹生族・木地師等山に生きる人々を統率してその採取に当たったのではなかったか。
このような想定のもとに、私は国内の鉱山地帯の見直しを始めた。
そして、行く先々で、日下部系氏族の足跡を見る事となった。
「福井に行く予定」とは、飛騨・奥美濃・越前・加賀・富山等かつて栄えた鉱山地帯を歩く旅であった。
八月、私は旅に出て、福井一乗谷遺跡にも足を延ばし、溝江家の祖、朝倉義景の墓所等をフィルムに納めてきた。 |