3 出発

 

【 手 紙 】

 ……という訳で、この手紙の始めに書きました様に出発の日は近ずいて来るのですが、何しろ、私も常仁も旅行など不慣れなものですから、旅の支度をしようにも、気ばかり焦ってまごまごするばかり、昔、子供の頃、遠足だとかお祭りなどが近付いて来ますと、何か落ち着かずそわそわしたものですが、今、こんな気持ちを味わえるなんて、本当に思いがけない事でした。

 それと同時に、何か悪い事が起きて、この旅行が駄目になるんじやないかという、そんな余計な心配も段々強くなってきて、ついに足を怪我してしまうなど、もう駄目かしらと思ったのですが、堀井さんは落ち着いていらっしゃって、「しばらく延期して様子を見ましょう」とのこと、ほかにも色々と何やかやあったのですが、結局、一週間遅れの出発ということになりました。

 私は、自分がこんなに心配性だなんて思っても見なかったのですが、十月二十三日早朝、車が迎えにきて荷物を積込み、その車の中に座り、そして実際に走りだすまで、何か悪い事が起きて中止になるのではと、そればかり気になって、東京の街並を抜けて高速道路を走り始めた頃、やっと「あゝ出発したんだ。未踏の先祖の地をこの目で確かめる為に……」という実感を持つ事が出来ました。

 

【 モノローグ 】

 つい先頃『古代日本海文化』という古代史の専門誌に「幻の名族−越前と丹後の日下部氏」という論考を発表する機会があった。

 丹後在住の郷土史家、小牧進三氏がそれに目を止められ、「日下部氏関係資料を提供するから、是非一度遊びに来る様に」と電話を下さったのである。

 様々な状況から見て、古代、丹後半島を拓いたのは日下部氏であった、と私は想定している。にも関わらず、この地域に日下部氏の足跡はあまりにも少ない。

 地元の研究家から日下部に関連するお話を伺えるとあれば何はさておいてもと、私は、旅行のプランをたて始めた。丁度その時、溝江春子さんが、祖地歴訪の夢を持たれたのである。

 最も大きな偶然は、我々の目的がいずれも「日下部歴訪」という大きなテーマで合致した事であった。

 私はここ数年、少なくとも七〜八度丹後を歩いており、言うなれば勝手知った土地柄である。おまけに日下部に関しては、ある程度の蓄積があった。溝江家にとって、最も適切と思われるガイドが最も身近にいたという事、これは偶然と言うよりもむしろ奇跡の領域に近いといえよう。

 

【 手 紙 】

 出発はしたものの、お天気は下り坂の様でした。

 静岡を通過する頃になっても雲は厚く、折角の富士山も姿を隠しております。

 向こうに着いても雨かも知れない等と、私はまたまた新しい心配が始まります。

 私の緊張をほぐそうとしてか、堀井さんは、難しい歴史のお話を解りやすく噛み砕いて色々話して下さいます。ところが私の方は、うかがうはしから忘れてしまいそうです。

 そう申し上げますと堀井さんはお笑いになって「今まで全く関心のなかった世界のお話を、一度聞いただけで理解出来たら、その人は天才ですよ。我々はどちらもただの凡人なんだから忘れてあたりまえ、いいから何度でも、同じ事を繰り返し聞いて下さい」と言われ、何かほっとした思いで、それからやっと外の風景が目に写る様になりました。

 名古屋を過ぎたあたりから、次第にお天気は良くなります。

 ご先祖の地が近付くにつれて空は美しく晴れ上がる様子、四方は山また山、一直線に進む先方の空は輝いてバラ色にひかり、その上を漂う雲は、朝焼けをふわっと白絹で蔽っている様に私には見えるのです。

 車窓の左ははるか彼方に海、そしてまた山と空、ピンクとオレンジを混ぜ合わせたような素晴らしい空の色、無風、私達だけが流れる様に走り過ぎても山々の緑は微動だにしていない。

 大きな山が目の前に迫る、長いトンネル、そこを抜けるとまた遠く近く木々の繁る山々、大自然の風景を押し分ける様に車で走る気分は爽快でした。

 

【 モノローグ 】

 東京を出たのは早朝五時、東名・名神・北陸自動車道と走り、福井インターに着いたのは丁度正午頃、交通量も少なく快適なドライブだった。米原のジャンクションから北へ琵琶湖東岸を走りぬけ、峠を越えると敦賀、此処もかつては朝倉の一族が支配した地域である。

 敦賀から北東ヘ、長いトンネルを幾つか抜けると武生盆地、此処には越前の国府が置かれていた。

 今でこそ高速道路が整備され、あっという間に通り過ぎてしまう木の芽峠は、ごく最近まで、若狭と越前を隔絶した峻険である。

 この天然の障壁に守られて、朝倉氏は自己の王国を築きあげたのだろう。

 福井平野に入る三つの道がある。

 一つは上述した木の芽峠の道。一つは東から大野を抜ける美濃街道。もう一つは北から加越国境を越える北陸道で、この道は溝江庄金津が関門となる。

 当時、畿内から越前を目指す人は、木の芽峠の険を避けて敦賀から海路をとった。

 その敦賀を拠点として越前の入り口を固めたのは教景の弟冬景、大野の犬山城には敏景の弟経景、溝江の金津城には義景の弟景勝がいた。

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