遺跡は完全に発掘整備され、手入れも行き届いていた。
奥の方に庭園。素晴らしい配右があり、池も復元され水を湛えておりました。右手の一角には古木の茂みがあり、そこが義景の墓所となっております。
墓石はやはり石造のほこらに収められており、上部には三木瓜、扉には五三の桐が刻まれておりました。
どなたがお供えになったのか、花々が墓前を飾っております。はるか昔、戦国の世に非業のご最後、朝倉の歴史は又の機会に詳しくお便り致しましよう。
朝倉家の繁栄が一世紀あまりも続いたと言う事は、彼らが領民を苛酷に扱わず、善政を心掛けた証拠でしょう、という堀井さんのお言葉が、私には何より嬉しうございました。
織田信長は天下をとるために、目障りなものは全部抹消されたとか。朝倉義景は文化と平和の国作りを考えて居られた由を聞きますと、本当に惜しい事でございます。
子孫の一人として、参詣させていただきましたことを心より感謝し、御冥福をお祈りさせていただきました。
墓域の左手は古風な石組が連なり、頂上の城跡へ登る道になっております。
少し上が高台になっており、庭園跡などが連なっているとの事、無理とは言われましたがどうしても拝観させていただきたく、堀井さんと常仁に両方から持ちあげる様にしていただき、登って見る事にいたしました。
葛折りの道を登りますと、いきなり目の前に素晴らしい遺構が広がりを見せます。
朝倉義景の御母堂様のお邸跡とのことでした。
奥の方は山肌を生かした見事な庭園、巨大な配石をかこむ様に山清水をひきいれた美しい池泉、往時は四季折々の風情が水面に影を落としていた事でしょう。
木漏れ日の中を振り返りますと、一乗谷が足元に広がりを見せておりました。
かつては武家屋敷が建ち並んでおりました跡はきれいに発掘され、その背後にはお向かいの山々が日差しの中に静まり、しばし幻想の世界に引き込まれた様な一時を過ごしました。
これほどのお庭をあしらったお館は、谷から見上げますと、さぞかし華麗な風景を描きだしていたことでございましょう。それが織田信長の大軍に攻められ、一夜にして灰となったとのこと、口惜しい事でございます。
【 モノローグ 】
山麓の朝倉氏館跡から受ける印象は、どちらかといえば慎ましい。土塁に囲まれた一郭はさほど広くは無く最低限必要と思われる建物のみで纏められていた様子である。
しかし一段上の高台に拡がる遺跡群は、一世紀にわたる朝倉氏栄華の残映を、余す所なく伝えていた。
朝倉家歴代の当主は京の公家衆とも交わりが深く、京風文化を基底とする朝倉文化圏の創造に熱意を傾けたという。
わずか数代で、世に言う朝倉文化を築きあげた財力の基盤が、何処からもたらされた物か明らかにされているとは言いがたい。一つは越前に置かれた広大な寺社領、興福寺・春日神社等の荘園収奪にあったと言われている。
収奪とは言っても、他に吸い上げられていた収益を停止し、領内を富ましめ様とする当時の大名の非常手段なのであろう。
戦国大名の統治形態等に不案内な私が、朝倉史を物語る資格は無いが、多数の家臣団を抱え(時代相を見ても多額の戦費を必要としたであろうし)その上でこのような高度の文化圏を築きそれを維持していく為には、より巨大な財源を必要としたに違いない。荘園収奪に加えて貿易の利潤が上げられよう。一乗谷から出土する遺物の数々もそれを物語る。
しかしその貿易の資本(見返り)は何だったのだろう。私は一乗谷周辺を取り巻く鉱物資源を考えたい。越前は鉄・丹生(水銀)を始めとして、金・銀・銅等豊かな鉱物資源に恵まれていた。
後述するが、朝倉氏一族は古来鉱山の開発に所縁の深い氏族なのである。
【 手 紙 】
一乗谷を後にした私達は、資料館を見学し軽い食事を取った後、まだ日が高いので溝江庄を見ておく事にしました。北陸の地形は山がすぐ海まで迫っておりますので、高速道路を十分も走ると山に入ります。
越前と加賀の境界をなす山々なのだそうですが、走っても走ってもまだ溝江庄だとの事で、我が家の先祖が支配していたという領域の広さに驚くばかりで御座いました。
山の中を大きく回りこむ様にしてもとの平野部に戻りますと、目の前が今夜の宿泊地芦原(あわら)温泉でした。
「今走って来た山は、有名な産鉄地帯なんです。
この平野部を開拓して米を作るのには大量の鉄の農機具が必要ですし、戦国時代ともなれば武器も沢山必要で、鉄は幾らあっても足りなかったでしよう。
国境の守備と鉄の確保、溝江氏はこの二つの重要な仕事を受け持っていた大変な一族だったと思います」と堀井さんがおっしゃいました。
私はそれをどうしても姉上様に伝えたくて、宿に着くとすぐもう一度話していただき、書き留めておきました。
【 会 話 】 …… 旅館にて ……
M「朝倉氏はいつ頃、但馬からここに来たのですか」
H「広景がこちらに来たのが暦応元年(一三三八)ということですから、今から約六百五十年前かな」
M「そして一乗谷に」
H「いや、しばらくは、といってもかなり長い間、朝倉氏は斯波氏一族の家臣だったそうです。広景から数えて七代目の敏景まで。
この敏景が偉い人だったらしいですね。 『朝倉始末記』という本に、こう書いてあります。
……敏景は幼童の時より才知人にすぐれ、二六時中に心を怠らず。昼は芸士を集めて弓馬軍法の奥義を評し、夜は達人を招きて儒仏歌道の至論を探られしかば、家中良卑の老若まで邪念は更になかりけり。年長給うに従て智仁勇の三徳を備え、一豆の食を得ても掌を連ねて士と共に之を食い、一樽の酒を受ても流れを濺て卒と均しく之を飲む。…(中略)…然る間主従魚水の思いにて、たとえいかなる義あるとも身を捨て忠を重んじて、などか粉骨せざらんと各勇み合ける程に、敏景の威勢にはなびかぬ草木もなかりけり。……
丁度その頃、斯波家にお家騒動がおきて滅びてしまった。それに替わって敏景が越前一国を治める事になった、というのですね。
文明三年と言いますから一四七一年。広景が越前に来てから約一三○年も経っています。
敏景は後で孝景と名前を変えていますが、一乗谷に城を築き越前の国主になったのはこの方ですね」
K「それが今から……」
H「五二○年ばかり前、という事になるのかな。
義景が亡くなったのが一五七三年だから、約一世紀一乗谷を中心とした朝倉王国が続いた事になります」
【 モノローグ 】
『朝倉始末記』がどの程度資料として正確なものか残念ながら私は知らない。
しかしそのあらましが、当時の歴史を踏まえて記されたもので有ることは確かだろう。
孝景に関しては、主家である斯波家を冒したこと、西軍を裏切り東軍へと転じたこと(応仁の乱)等から世評は区々である。しかしそれは戦国の世の常ではなかったか。
孝景一代で一乗谷築城から越前全域支配にいたる構図が確立され、それを子孫に受け継がせる事が出来たとすれば、それは家臣団全体の結束による支えと、領民(と、それを抱えていた群小土豪勢力)の支持があって初めて成し遂げられる偉業であろう。 |