「御同行の方々を案内されるといいですよ」という小牧氏の言葉に他意はなかったであろう。氏は川口氏に関する何の知識もなかったのだから。
私の話を理解していただく為に、川口氏の日常を紹介しておかねばならない。暫らく時間を割いていただきたい。
現在、日本のキリスト教会には様々な流れがあり、その一つに「聖イエス会」という教派がある。
「聖イエス会」はイスラエルとの強い結びつきがあり、六芒星(今はダビデの星といおう)はイスラエルの神紋であった。
川口氏はその教会の熱心な信者であり御夫妻共々、日々敬虔な信仰生活を送っておられる。
ちなみに私が愛用しているキー・ホルダーは、その教会の牧師が聖地巡礼に赴かれた時のお土産で、大きなダビデの星がその中央をかざっている。
宿で同行者にお二人を引き合わせ、私はさりげなくキー・ホルダーを取り出して川口氏に言った。
「今日いった神社にこのしるしがあったよ」
川口氏の顔色が変わる。
「エッ、何処で?、なんで神社にそんなものが?」
小牧氏と木村氏も驚かれたらしい。
「堀井さんとそのマークと、何か関係があるのですか」
「いや、私ではなくて、彼にとって大変なマークなんです」
今回の旅を考えると、溝江春子さんには御先祖の跡を訪ねるという大きな目標があり、私にも小牧氏訪問という重要な目的があった。
川口氏にとってのこの旅は、親孝行という大義名分を抜きにすると、さほどルーツ探索に興味があるわけでもなく、言わば終始従の立場にあったと思われる。
それがダビデの星との出会いによって、一挙に”自分自身の旅”へと急転する事になった。
【 手 紙 】
雨が上がり、そろそろ夕闇が迫りはじめた頃、堀井さんは先生方をご案内してお戻りになりました。
お二方は苦労して集められた資料を沢山お持ち下さり、堀井さんは感激しておられました。
私が持参いたしました『溝江家由緒書』を見ていただきました所、”景(かげ)”のつく名前は鉱山に関係が深いとのこと、堀井さんも、溝江家が津軽に仕官したのは鉱山開発に関連しての事ではないか、と話しておられました。
明日訪れる予定の但馬の日下部氏は、広く鉱山を支配していたとのこと、その日下部から出た朝倉も、その技術・知識を受け継いで越前に移られたのだそうです。
夕食をご一緒していただき、その後もまた日下部のお話を沢山聞かせていただきました。
夜は更けて参りましたがお話は尽きそうにもありません。明日は日下部が祀ったという真名井神社にもお参りしなければなりませんし、先生方と再会をお約束してお別れいたしました。
【 モノローグ 】
◎《景》の字と鉱山の関係について
鉱山関係者が祀る代表的な神様に天目一箇(あまのまひとつ)神がある。この神様は片目であると昔から言い伝えられてきた。
職業病・鉱毒・事故などによって鉱山の人々と不具者伝承は関係が深い。
民話等、地方伝承に片目・片足・唖などの物語がからむと、そのほとんどは鉱山に関係があるという。天目一箇神はタタラ(炉)の神であり、常に火色を見て金属の溶解度を計るため、片方の目を失ったという。
片目であるが故に鉱山神とされた事例がある。
八幡太郎義家の家中に、鎌倉権五郎景政という武将がいた。
仙北金沢の合戦(後三年の役)で右眼に矢を受けたがものともせず、その相手を討ち取って勇名を挙げたという。
この景政を祀る有徳神社は、主として丹波に集中するが、小牧氏の御教示によると、この神社が祀ってあればそこは鉱山であったと見てもよく、《景》の字を名前に取り入れるのは、鉱山関係者が景政にあやかる為に用いる場合が多いとのことである。(補注・2)
◎ 日下部・朝倉と鉱山---
朝倉は但馬日下部の出である。養父郡朝倉の地を宰領し、その地名を姓とした。
但馬日下部氏が拠点とした粟鹿は、生野から北へ延びる鉱山地帯の中心に位置している。彼らはその粟鹿に盤踞して周辺の鉱区を支配し、一族繁栄の基礎を築いた。
粟鹿山に祀られた神は、往古、鉱山の神であったに違いない。神社の神紋《抱茗荷》を家紋とする一族が生野銀山にもいた。
生野の資料館(シルバー生野)には、三枚の”見石幕”が保存展示されている。
山神の祭りの日、鉱山師は自分の持ち山から出た一番良質の鉱石を車に乗せ、四方を幔幕で飾って神前に運んだという。その時用いる幕を見石幕といった。
見石幕の一枚に抱茗荷の紋が大きくそして豪華に刺繍されている。この紋を用いた鉱山師が誰であったか知るよしもないが、粟鹿神社に所縁の有る一族であったにちがいない。(川見時造「鉱山師と菊花紋章考」『木地師研究』二四号)
粟鹿神社と日下部氏の繋がりを否定することは出来ない。
歴代の宮司は日下部氏であった。
神社に伝わる『田道間国造日下部足尼系図』によれば、[彦坐王−−丹波道主王…船穂足尼(但馬国造〉…嶋子(浦島伝説の主人公)と宮司の系譜を繋いでいる。
祭神を見ても日下部系を示唆するものが多い。
『粟鹿神社由緒』は主神を日下部の祖彦坐王とし、社殿の裏にはその陵墓と伝えられる古墳がある。主神をヒコホホデミ尊とする説も多いが、この神は日向神話「海幸・山幸伝説」の主人公山幸彦であり、この神話を浦島伝説と同根とみる識者は多い。
浦島伝説の本家、宇良(うら)神社には月読尊が祀られ、潮満珠・潮千珠(海幸・山幸伝説の宝珠)が社宝として伝えられている。粟鹿神社にも月読尊が併祀されており、社宝の一つに潮千珠がある。また境内社として、浦島神を祀るという床浦神社が置かれているのもこの二つの神社の近縁を示唆し、粟鹿神社と日下部一族の関係を裏付ける傍証となろう。
日下部一族は、この粟鹿を中心として繁栄し、その子孫は分散して但馬の各地を宰領した。その内でも重要な位置を占めるのが八鹿(ようか)町朝倉である。
日下部表米から数えて一五代目の宗高がここに城を築き朝倉氏を名乗ったが、この地は南に明延の鉱山地帯、東は生野から床の尾,朝日とつづく金・銀・銅の鉱脈、西は有名な中瀬金山等に囲まれていて、但馬鉱山地帯の中央に位置している。宗高の子高清が勇名をあげ越前朝倉氏の祖となったが、朝倉の地名そのものが鉱山を意味するものであった。朝倉のアサ(麻に通音)は本来鉄・銅等を意味し前述した朝日金山の様に「朝・麻」にちなむ鉱山名・鉱山伝承は多い。朝が麻に転化していく背景には農耕文化との融合等も考えられ様が、麻の葉で目を傷つけ片目を失ったという鉱山神の伝承も各地にみられる。
クラは谷を意味するというから、朝倉は字義通り解釈すれば「鉱物の谷」であり、その子孫が代々《景》の一字を名に加えた謂れを説明する傍証となろう。
越前一乗谷をとりまく金・銀・銅の鉱脈と朝倉家、産鉄地域を支配し、東北鉱山地帯へと移動した溝江家の歴史等、全て鉱山との関係の上で捉えうるとみる理由は以上述べた通りである。
溝江景義が津軽家に仕官したのは、二代信枚(のぶびら)の時代であった。
この時代津軽家ではお家騒動があり半減した家臣を補う為、諸国の浪人を大量に召し抱えたというが、当時信枚は、初代為信から引き継いだ尾太(オツブ)鉱山の開発に力を注いでいた時代であり、景義が重用された背景には、津軽藩の鉱山経営をひとつの事由として見ておく必要があるのではなかろうか。
◎ 日下部氏と真名井神社(籠神社)
真名井神社は籠(この)神社の奥宮であり、両社は不離一体の関係にあるので併せて考える事にしよう。
粟鹿神社が日下部の祖を祀る神社であることは先程述べた通りであるが、その粟鹿神社の祭神の中に籠神の名が見え、両社の関係の深さを物語る。
籠神社は日下部と同系氏族、または日下部自身が祀った神社ではなかったか。
籠神社を創祀し現在に至るのは海部直(あまべのあたい)一族で、祭神は海部家の祖天火明命(あまのほあかりのみこと)または住吉三神とする旧記がある。
天火明命と住吉神は本来同一神であった。
その説明は長くなるので省略せざるをえないが、興味の有るかたは『古代史ファン』三九号に掲載した拙論を参照していただきたい。
籠神社は、同社に伝わる系図によれば養老三年(七一九年)の創建とあり、それ以前は真名井神社が本宮で海部氏の一族が祭祀を行なっていたという。
海部直と日下部の関係を説明する為に、もう一度粟鹿神社に戻ることとしよう。
粟鹿神社と真名井神社を、直接結びつける資料がある。
粟鹿神社の社宝に第六五代花山天皇の御震筆が秘蔵されており、それには「正一位勲十二等粟鹿大明神八百会殿総社籠原魚居(このはらまない)鮑官」と記されていた。
籠原魚居が籠神社奥宮真名井神社を指すことは容易に推察されるが、《鮑宮》にも大きなヒントが隠されているのである。
粟鹿神社社伝は「彦坐王外敵討伐の時船が難破し、九穴の鮑がそれを助けたので、その鮑を養父郡枚田の赤渕神社に祀った」と伝え、一方日下部氏族伝承は彦坐王を日下部の祖表米に置き換え、同形の物語を『赤渕神社由緒』に残している。
この物語は日下部一族にとっで重要な伝承だったらしく、養父郡一円の日下部氏は現在も鮑を食さないと言い、朝倉氏は、移動すると必ずその先々に(例えば一乗谷)赤渕神社を分祀した。(補注・三)
真名井神社は昔、「丹波(たにわ)の与謝の久志備(くしび)の真名井の宮」といった。略してヨサの宮といい、与謝郡の郡名起源といわれるほど重要な神社だったらしい。
風土記その他の所伝によれば久志備はクシビの浜、つまり天橋立を意味し、天橋立は天と地を結ぶ梯(はしご)であったという。
真名井神社には原初イザナミ尊が祀られており、御夫君イサナギ尊はこの梯で天から地上に通われた。
現社殿の背後にある磐座の上でイザナミと同衾されている間に、梯が倒れて天橋立になったと言うのである。
ヨサには[匏]の字があてられている。
匏はひさご、つまり”ひょうたん”の事であるが、私は粟鹿神社の項に記した「鮑宮」の所伝に通じるものと考えたい。
音読すれば匏も鮑も同じく「ホウ」である。
しかし、音による共通点の他に、航海伝承による接点が有ることは見逃せない。
昔、神功皇后が新羅に渡海した時、船にひさごを用意した所伝があり、また、瓠公(ここう)という人がひさごを腰につけて新羅に渡海、その地で王になったという伝承もある。
瓠も匏も同じくひさごであるが、浮力を有するひさごは、古代の船には欠かせない海難時の安全具ではなかったか。
九穴の鮑は船底の穴を塞ぎ、難破した船を救けたという。
ここでは匏も鮑も同じ役目を果たすものとして伝承に登場する。匏と鮑の転訛は、むしろ自然な形と考えたい。(補注・ 4)
粟鹿神社と真名井神社は、日下部氏の氏族伝承によって結ばれていた。最後に海部直と日下部の接点を考えておこう。
浦島伝説に見る日下部氏は、海人伝承を主体として描かれている。しかし今まで私が見てきた日下部氏は主として山人(鉱山関係者)を統率する一族だった。
原初、丹後半島に居を定めた日下部集団は、恐らく”海幸・山幸”伝説が暗示する様に海人と山人の混成部族ではなかったか。
彼等は網野を中心とする丹後海域を本貫とした時点でそれぞれの専業に復帰し、山人は砂鉄等鉱物資源を求めて内陸ヘ、海人は漁業・交易集団に分離した。
その後、畿内王朝勢力の侵攻があり、海人専業集団もその翼下に組み入れられる事となるが、その時彼等は海部を名乗り直(あたい)というかばね(姓)を与えられたのではなかろうか。
まだ、推定の域にとどまるが、日下部首(おびと)と海部直には大きな近似値が感じられるのである。
小牧氏は『古代丹後逍遥』(『郷土と美術』八十三号)で籠神社に伝わる『秘記』を紹介され、そこに「籠神社、亦の名浦島大明神」と記されている事、如意尼の伝承から日下部と海部の共通性が確かめられること等を記しておられる。
如意尼は与謝郡の出自で、第五三代淳和天皇の次妃となった。彼女は皇妃時代”真名井の御前”と呼ばれ「嶋子(浦島伝説の主人公)の持ちたりし玉の箱」を所持していたという。
真名井神社に祀られているのは伊勢神官外宮の祭神豊受大神であり、日下部氏と直接の関わりはない。この一族が別系の神トヨウケを祀る事となった由縁は別の機会に説明する事としたい。
【 手 紙 】
大変疲れてはおりましたが、その夜、私は何時までも眠ることができませんでした。
「古代日本の歴史を創ったのは日下部の一族です。二千年も前の先祖が分かる等というのはめったにない事ですし、それがこれほど重要な仕事をなさった一族だったなんて本当に素晴らしい事じゃないですか」と、堀井さんはおっしゃっていらしたのですが、始めの内は、ただ溝江の先祖がわかり、突然目の前に新しい世界が開けたという事が無性に嬉しく、その事のみに心を揺すぶられ、それが大変な事に思い至りませんでした。
あの時堀井さんは「日下部を中心にして日本の古代史を考えるというのは全く新しい試みで、今の所こんな考え方をしているのは私一人の様です」と笑いながらおっしやって居られましたが、こうして色々な所を歩き、今夜も堀井さんと先生方が夢中になって話し込んでいられるのを拝見しておりますと、皆様が日下部を中心に、それも確信を持って研究を進めておられるご様子、堀井さんのおっしやった「大変なこと」の意味が、だんだん分かって参ったので御座います。
一夜明けるとあいにく今日も曇り、雲は厚く日の光を遮っております。
天橋立を見ておきましょう、とのことで宿に別れをつげ車にのりました。
しばらく内海にそって走り、右手の山に入ります。急な坂道を十分ばかりで山頂の公園に着きました。
まだ時間が早いので、人影もまばらです。
公園のなかを横切り山ぎわの木立の方にまいりますと、展望台がしつらえてありました。
そこからの眺めは、とても文章で描ききれるものでは御座いません。写真を添えておきますので、ご覧になりながらお読み下さいませ。
遥か目の下に広がる青い海に、一本の細い道が松の緑とともに対岸へと続いております。
造化の妙と申しますが、あまりにも素晴らしい自然の造り上げた芸術では御座いませんか。
日本三景の一つと話に聞いてはおりましたが、この素晴らしい風景をご先祖は日常目のあたりにしておられたと思うと、ごみごみした東京での毎日の暮らしが口惜しいかぎりでございます。 |