本文に書き切れなかった日下部一族と鉱山、熊野修験と木地師集団のからみ等、短文にまとめて巻末に付しておくことにしよう。 熊野修験・木地師・日下部と鉱山 丹後浦島伝説の主人公日下部一族は、この伝承を持って全国を移動したという。(水野 裕『古代社会と浦島伝説』) 丹後日下部の一部は但馬に移動し、但馬鉱山地帯を支配して国造伝承を残すほどの大豪族へと成長した。 同じく国造伝承が記録されている伊豆・甲斐等も古代にさかのぼる鉱山地帯であった。 しかし彼等は鉱脈を追って移動した為か、伊豆・甲斐に日下部伝承は少ない。 日下部一族の足跡に重なりを見せる集団の存在があった。 熊野修験と木地師の伝承である。彼等は共に山をすみかとし、定住の歴史を持たない”歩き筋”であった。中でも熊野修験は日下部と密着し、但馬には両者の結合を物語る資料がおおい。 本文に記した「九穴の鮑」伝承は、本来熊野修験が創作、花山天皇伝説と共に但馬に持ち運んだものであるが、但馬日下部氏がそれを自己の氏族伝承に仕立てた事をみても、両者の関係の深さが伺われる。 この両者を結びつけたものは、鉱山技術の提携ではなかろうか。 本文で引用した川見時造氏の論考は鉱山と木地師の関係に言及されているが、熊野修験と木地師の間にも深い繋がりがあった。木地師の本貫は近江小椋荘とされており、古来この地域も鉱物資源の豊かな地域だったのである。 江戸時代この地域で金・銀・銅等の採掘が盛んだったことはよく知られている。この地区(現・永源寺町)には小椋千軒・筒井千軒・藤川千軒等の地名が伝承の中に残されており、これらは鉱区の盛業を物語るものであろう。 木地師集団の居住から**千軒の呼称がうまれたとは考えにくい。 彼等は本来、小グループで各地を移動したのではなかろうか。大集団の定住はたちまちにして資源の枯渇を見るであろうし、祭りで全国から集合したとしても、**千軒の呼称は生まれまい。 木地師の祖は、漂泊の皇子惟喬親王とされている。 惟喬親王伝説の分析はすでに橋本鉄男氏が『木地屋の民俗』『ろくろ』等で詳細な考察を行なわれ成立の過程を説明されているが、氏も述べられているように、私も惟喬親王が「小野宮」を称した事、「小松」という地名が残されている点に注目したい。 「小野」一族は、はるか古代に遡る鉱山師の一族であった。そして「小松」は熊野の那智で入水したという小松中将平維盛に由来するものではなかろうか。熊野系修験の本貫である郡智山中には維盛伝説の遺称地が多い。 熊野修験が平家伝説の伝播者であると言い切る訳にはいかないが、少なくとも維盛伝説に限れば熊野修験を戯作者と見る事は可能であろう。 小椋谷と熊野修験の関わりを証明するのは難しいが、小松の地名が彼らの足跡の一つと見る事は出来ないだろうか。 地縁と古代の産業を重ねて見ると、紀州一円を勢力圏としていた大氏族「紀氏」一族と熊野修験の間に繋がりはなかったであろうか。 阿波から紀州に上陸して伊勢へ抜ける中央構造線に分布する水銀鉱床とその鉱脈に付随する登かな鉱物資源の存在を考えるまでもなく紀州一円は古代に遡る鉱山地帯であった。 熊野修験の本貫、郡智周辺の鉱山が近年まで稼働を続けていたことはあまり知られていないがここから高野山へと続く鉱脈の開発に携わっていたのが熊野修験だったとすると、彼らと紀氏一族の繋がりは浅からぬものであったに違いない。(篠原四郎『郡智叢書二四巻』、その他) 両者の繋がりを念頭に置くと、紀氏を母方に持つ小野宮惟喬親王が小椋荘を隠棲の場に選んだとするのも故なくはない。 近江の小椋に九世紀の初頭、紀氏の所領があったのは事実である。 淳和天皇の天長一年、紀鷹守が俊子丙親王に所領を売却したという沽却状が現存している。(『赤星文書』) この地に熊野修験が足を留める素地はあった。同時に惟喬親王伝承が定着し、成長していく要素も存在したのである。 近江から甲賀にかけて活躍したのは飯道山修験であるが、彼らは熊野修験の傍系であった。 熊野における修業を経なければ、一人前の飯道山修験と認められなかったのである。 飯道山修験は但馬にもつながりがあった。当寺の裏印のある補任状が二三通、兵庫県温泉町泉寿院に保存されている。(満田良順『飯道山の修験道』) 現時点では想像の域を出ないが、紀氏の勢力を背景とした熊野修験が、近江田上山から甲賀を抜け養老山地に至る鉱区を開発していた時代、近江に居住した渡来人、原・木地師集団等が開発グループに所属しており、鉱物資源を掘り尽くしてグループが退転したあとも木地師集団はとどまって生産を続けたが、その後彼らは自分たちの社会的な位置付けを確立する為、惟喬親王伝説を成立させたという見方も可能ではなかろうか。 熊野修験・木地師・日下部、この三者の繋がりを求める旅は今始まったばかりである。 そのとっかかりが、この小論であった。 今後の展開に皆様の御助力を頂きたい。 日下部一族の歴史から、大分脇道にそれてしまった。 別の機会に詳考したいが、私は、近江湖南部を中心とした日下部一族の分布圏の存在を考えている。 興味の或るかたは、拙論(『日下部氏とその一族』「古代史ファン」四五号)を読んでいただきたい。 平成元年 二月 二十六日 |