割礼と洗礼
>しかし、その継続がバプテスマと言い切れないところが問題ではないでしょうか?
洗礼が契約に加入する儀式であるというのは、バプテスマが「キリストに結ばれる」ためのものであるということから明らかです。
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ 3:27)
洗礼は、人をキリストの体である教会に結びつけることを意味し、それゆえ、洗礼を受けたクリスチャンは、互いに一つであり、キリストにあって、罪を処罰され、赦され、復活し、将来、キリストとともに永遠の御国を受け継ぐことができます。
「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ 2:12)
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ 6:4)
聖書において「教会」と訳されている「エクレシア」という言葉は、旧約聖書において、「契約の民」と同義でした。ラッシュドゥーニーは次のように述べています。
「church と訳されている新約聖書の言葉は ecclesia であり、これは、むしろ「神の御国」を指しています。ecclesia は、本質において、契約の民を表す旧約聖書の言葉 edhah (つまり「会衆」)及び qahal (つまり「集会」)と等しいのです。ecclesia と同様に、edhah や qahal は、契約の民全体…を意味します。」
旧約聖書において、契約の民に加えられる儀式は、割礼であったことを考えるならば、当然のことながら、洗礼は、新約聖書における割礼に当たる儀式ということになります。
このように、割礼と洗礼、過越と聖餐は、平行関係にあり、この図式を聖書から否定することは非常に困難です。
02/09/13