自らを低くする以外に神を信じることはできない
>虚無に耐えられないヒトは、絶対「何か」を見つけ出します。
>その「何か」が「(完全なる)キリスト教」でなければならない、
>というのは、
>「(完全なる)キリスト教の」善悪判断の中では正しいかもしれませんが、
>論理判断では言い切れないでしょう。
>だから、「信じる物しか救わない」んですよね?
その通りです。
しかし、蛇足になるかもしれませんが、どんな人間も純粋な「論理判断」などできないということです。
「神や神の言葉を証明してやろう」と言う人は、
「神や神の言葉を超えた価値の体系がある」という信仰にすでに立っているので、このように述べた時点ですでに「神を否定している」のです。
つまり、彼は、先入観に支配されており、証明者となることはできないのです。
論理判断こそが万物を評価する正当な方法である、というのは、「神以外」については言えることですが、神についてそれを言ってしまえば、自己矛盾に陥ります。
「この世で最も高い山をも見下ろす山に上ろう」として登山を始めた人は、永遠にそれを行えないのと同じです。
だから、「聖書的キリスト教だけが唯一の真理の体系である」ということを否定したい人は、論理判断に頼るのではなく、キリスト教の内部に入って、内部矛盾を突くしかないのです。
「処女降誕はない。なぜならば、生殖行為以外で子どもが生まれることはないから」と言ってキリスト教を否定する人は愚かです。
それは、「自然の法則を超えたことは起こらない」という前提に立って判断しているからです。キリスト教は自然の法則を超越した神を信じているわけですから。相手が、こちらの前提に立つことを拒否している場合に、どんなに自分の前提でものを話しても、ただの「罵倒」でしかありません。
異なる前提に立つ体系を破壊したいなら、その前提に立って、内部矛盾をつくことです。
そして、このことは、信仰という面においても真理です。
キリスト教の外部にいて、キリスト教の正しさを確認しようとしても、限度があります。なぜならば、「神を恐れることは知識の始め」だから。
「俺の主権者がいるなら出て来い!」と命令するのは、すでに態度として「主権者を否定しているので」オカシイのです。
就職のために会社訪問をする時に、「おい、社長を出せ!」と言っているようなものです。
自らを低くする以外に神を信じることはできません。
>つまり、「神の名のもとに」とさえ言ってしまえば、
>「彼らを必ずしも傲慢者・無知者呼ばわりはできなくなります。」
>「必ずしも傲慢なことをしているとは限りません。」
>という選択的な言い方さえ、絶対化されてしまうということですか。
>なんか、鮮烈な自己世界の崩壊と再建をキリスト教に求めたのですが、
>「誤魔化されてる」感が募るばかりです。
聖書では、預言者という人々(エレミヤ、イザヤなど)が起こされます。
彼らは、神の言葉をそのままに伝えなければなりませんでした。
もし、彼らを批判する人々が「おまえは、神でもないのに、何故神の心を知っているのか。おまえのように断定的にものを言うのは傲慢だ。そうでなければ、無知だ。」と言うとします。
「いいえ。私は傲慢でも無知でもありません。神がこれを伝えよ、と言われたのですから。」
この預言者を否定するには、
「人間は神の心を知ることは『どのような場合でも(つまり、たとえ神が啓示したとしても)』できない」
という命題を証明しなければなりません。
こんなことを証明できる人は誰もいません。
もし、証明できるというならば、その人こそ、傲慢と無知の塊です。