暗記を重んじない教育

 

 暗記中心の勉強が批判されている。

 思考する力が養われないから、と。

 しかし、古代からユダヤ人は、子供にモーセ律法を暗記させてきた。彼らは思考力がなかったであろうか。

 世界のノーベル賞の30%近くは、ユダヤ人によって占められている。

 日本においても、昔は現在よりも暗記中心の勉強であった。詩をまるごと暗記させるなんてのは普通のことだった。

 

 歴史の授業から暗記が奪われればどうなるのだろうか。

 ろくに史実の年代も知らないくせに、はたして歴史を論じることができるのだろうか。少なくとも世紀くらいは知らないと、事件の因果関係をおさえることはできないだろう。

 歴史の教育において、怖いのは、暗記をさせないで、まず語らせるというやり方である。史実について無知なまま語る習慣をつけさせると、通俗終末本などに簡単に洗脳されるトンデモ君が増える。

 ガリレオや当時のカトリック教会の思想的・歴史的な背景を知らずに、また、(ガリレオを含め)当時地動説を唱えた人々がキリスト教徒であったという事実も知らずに、「教会はガリレオを迫害した」という一点だけをことさらに強調して、「教会対科学」という図式を描き、「だから、キリスト教は反科学的である」という安直な結論を出すたぐいの人間は、このような事実知識を重視しない教育の犠牲者である。

 彼らは、事実を丹念に調べることよりも、まず、自分が言いたいことが先に来る。それは、そのようにしてもよいと教育されたからである。

 このような教育を受けた人間ほど、扇動に乗りやすいから注意が必要である。事実に対する敬意というものを養われていないので、自分の目や耳に心地よい主義や主張にすぐに引かれて行き、一緒になってワーワーやる。ナチスについていった愚民の類である。

 クリスチャンにとって致命的なのは、「私にとってそれはどのような意味があるか」ということにしか関心がない、という立場に安住することである。

 聖書全体からある特定の事実や教理を見ていくのではなく、自分にとってそれがどのような利益があるかという視点からしか物を見れないと、「大切なのは信仰による救いであって、こまごまとした律法の遵守にこだわるべきではない。」などとヌケヌケというようになる。

 神が「こまごまと守れ」と指示しておられるのに、「こまごまと守るな」というのは、神への真っ向からの挑戦である。

 はたして神は「十分の一献金?そんな細かいことはどうでもいい。大切なのはイエスを信じる信仰だよ。十ニ分の一でも、ニ○分の一でも、自分ができるかぎりのことをすればいいのだよ。」とでも言っただろうか?もし述べたならば、教えていただきたいものだ。自分の有り金全部である2レプタを納めた女をイエスがお誉めになったことは知っているが…。

 このような我流をつらぬく人間が教会に増えてきたのは、「聖書に何が書いてあるかは重要ではない。自分にとって何が利益かが重要なのだ。」と考えるエゴイズムを教会が許してきたからである。

このような偶像崇拝の風潮と、暗記を重んじない教育との間には密接なつながりがある。

 

 

 



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