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千年王国の問題は重要ではない?

 

 「千年王国説について、どの説を取るかはそれほど重要な問題ではない。」という意見をよく耳にしますが、千年王国についての見解は、歴史をどのように見るか決定しますので、非常に重要なのです。

 

<歴史は進歩しているのか、それとも退歩しているのか、それとも前進も後退もしていないのか。>

 

前千年王国説:歴史は、最後に反キリストによる世界制覇に終わるとするので、「退歩」すると考える。どんなにクリスチャンが頑張っても、最後には大患難と大迫害が教会を襲い、世界はサタンの手に落ちるとするので、現在自分が行っている仕事に意味を見出すことができない。コンピュータの発展のために努力しているプログラマーは、「この技術もついには反キリストのために用いられることになるのだ。」としか考えられないので、心の奥底において空しさを感じてしまう。クリスチャンの政治家は、国家をキリスト教化することの保証がどこにもないので、どのような改革の事業も空しく感じられる。社会への働きかけが、失敗に終わることが保証されている以上、「それじゃあ、そんなことに時間を使うことは無駄だ。」と考えても不思議ではない。それゆえ、今日の前千年王国説を信じるクリスチャンたちは、「世界を変えようとするな、一人でも多くの人を救いに導け。沈み行く船上でどうして真鍮を磨こうとするのか。」というのだ。このようにして、世界を変革できる最大の可能性を持つ4000万のアメリカのクリスチャンたちは、去勢されてしまった。彼らは、社会におけるクリスチャンの働きにおいて、無力感にさいなまれ、個人的な内面の世界に閉じこもっている。

 

無千年王国説:歴史において、神の働きもサタンの働きもどちらも平行して進展すると考え、進歩も後退もしないと考えるので、神の働きに従事しているクリスチャンは自分の働きが実を結ぶことになるのか確信を持てない。「靖国神社問題」に携わっている無千年王国説の牧師がかつて私にこう言ったことがある。「富井さんの後千年王国説を信じると希望が持てますね。」 そう。無千年王国説では、どのような社会改革も、最後に勝利するかどうかわからないので、確信が持てない。「世界を変革することはできない。聖書にはそのようなことが成功するという証拠はどこにもない。」(DM・ロイドジョーンズ)というのが真実ならば、クリスチャンの社会改革の働きは、常に襲ってくる不安と無力感の中で成功はおぼつかない。

 

後千年王国説:キリストはサタンに対して十字架上で法的に勝利され、歴史は、その勝利を具体化させる舞台である、とするので、歴史の「進歩」を信じる。ペテロは「悪魔に立ち向かえ。そうすれば、悪魔はあなたがたの前から逃げ去るのだ。」と言った。クリスチャンが行う社会改革は、必ず勝利する。なぜならば、クリスチャンの背後には世界の王キリストの主権があるからである。「キリストの御名によって」行うならば、何事でも、私たちの行動には神の権威が伴なう。私たちが、もし、私服で路上に立って、交通違反者を取り締まろうとしても、誰も停車しようとはしないだろう。しかし、もし私たちが警察官の資格を得て、制服を着て取り締まりにあたるならば、どうだろうか。車は必ず私たちの前でとまる。それは、私たちの背後に、国家権力があると運転者が知っているからである。私たちは、「国家の名によって」車を止めることができる。

 このように、クリスチャンは、「キリストの名によって」語ったり行うことができるのであるから、クリスチャンの働きは失敗するはずがない。クリスチャンの背後には神の権威がある。

 

 神の御名による改革は必ず成功し、それゆえ、歴史は神の勝利の舞台として進展する。世界は時間とともに神の栄光を現していくことになる。サタンを放置するのではない限り、彼の働きは制圧され、徐々に世界は神の恵みを享受するようになり、ついには驚異的な平和と義と信仰の時代が到来する。

 

「そして、その像を打った石(キリスト)は、大きな山となって全土に満ちた。」(ダニエル2・35)

 

 

 



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