マインドコントロール

 

 思えば五年前、オウムの人達が「米軍の飛行機がサリン攻撃をしている」と真顔になって言ったり、ヘッドギアをつけているのを見て、マインドコントロールの恐ろしさを感じたものでした。

 しかし、マインドコントロールはそんなに遠い存在ではなく、身近にあるのだということは、進化論の主張を見ることによってわかります。

 

 なにせ、現在の進化論は、DNAの偶然の変異によって、形質が突然でき、それが積み重なって大きな進化につながっているなんて平気で言っているんですからね。自然淘汰による「ふるい分け」などは、形質が生まれて後のことで、まず形質が『偶然のみによって』生まれねばならない。例えば、「それまで二次元でしか生活していなかった蜘蛛が、いまだ体験もしていない木の枝の間に糸を巧みに織り上げて巣を作って行く本能とかが、DNAの偶然の変異によってできた」「太陽と自分の体の角度で位置を測りながら進み、太陽の移動をも計算に入れながらもとの場所に正確に帰ることができる帰巣本能をハトはDNAの突然変異によって偶然に身につけた」なんてマトモナ頭があれば信じられませんよね。

 

 こんなこと信じているのに、彼らは、「俺達は科学で、おまえたちは非科学だ。」なんてのうのうと言ってのける。まさにこっけいです。

 

 えっ?「神による創造こそ、こっけいではないか。」なんて声が聞こえてきそうですね。

 

 残念でした。こちらは、形質発現の原因を偶然には求めておりません。どのような形質であっても、それは人格者による計画によってできたとする。きわめて合理的です(*)。

 

 「神の存在を前提とすることこそ非科学的ではないか。」なんて声も聞こえてきそうですねえ。

 

 じゃあ、神の不在を証明できるんですか?あなたがたが、大切にしている帰納法的方法によってそれが可能だ、と。データを集め、そのデータから普遍原理を導き出し、その原理を検証する事実を得るために実験・観察を行って原理の暫定的妥当性を導き出すことによって、神は存在しない!と言える?冗談でしょう。

 

 言えないなら、なぜ「神存在を前提とするなんて非科学だ!」と言えるのでしょうか?

 

 

(*)ちょっと心配なので付け加えておきますが、「合理的」という言葉は、カント以降「形而上学的なものを論議の中に介在させない」と同義として用いられるようになっていますが、文字通りとれば、「理に適った」という意味です。「形而上学的な世界は、人間にとって知ることができない世界なので、考えても無駄だから捨ててしまおう」というのが、カント以降のヒューマニズムの合理主義です。だから、「合理的=形而上的なものを除いた」と言う意味で使われるようになった。誤解のないようお願いします。

 

 

 

 



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