みんなで幸せになろう?
戦後の日本を支配してきた思想は、「みんなで幸せになろう」というものだ。みんなで幸せになるためには、一人だけ幸せになっている人からお金をもぎとって、貧乏な人々に分け与えなければならない。累進課税や相続税、贅沢品への多額の課税は、こんな発想から来ているように思える。
この「みんなで幸せになろう」という発想を徹底したのがソ連であり、ソ連においては、誰も失業せず、どの会社も倒産させないために、競争が否定された。競争がなくなるから、市中には不良品が出回り、誰もソ連製品を買おうとしない。人々が買おうとしないから、政府は警察力を使った。闇市を取り締まり、舶来製品の流通を禁止し、海外からの贈り物には多額の税金を掛けた(その反面、党の幹部だけは、舶来製品を自由に手に入れることができた)。
「みんなで幸せになろう」とした社会は、皮肉なことに、みんなで不幸になった。
ある人々は、「キリスト教はみんなで幸せになることを教えている」と考えているが、けっしてそうではない。聖書が述べている理想は、「みんなで幸せになる」のではなく、「努力した人だけが幸せになる」ことである。
報いを受けることができるのは、働いた人だけである。イエスは、しもべに金銭を渡して、商売をするように命じて、長旅に出かけた金持ちのたとえ話をしておられるが、報いを受け取ったしもべは、「働いてもうけた」者だけである。
つまり、聖書が教える幸福とは、万人に与えられるのではなく、個人の責任を果たした者だけである。万人が幸せになることを理想とするのは、マルクス主義である。
祝福は、神の法を守った人だけに与えられる。
聖書は、個人の責任を重視している。つまり、聖書は、我々に大人になることを求めているのだ。
「みんなで幸せになろう」とする社会に生きていると、人々は、責任を回避することを覚え、リスクを冒さず、妬みに支配されるようになる。戦後の日本人が小児化したのには、ちゃんと理由があるのだ。
02/01/14