堂々と論じ合おうではないか
超常現象=オウム=カルト というような単細胞な図式でしか、判断できないならば、
超常現象=キリスト教=カルト という結論も導き出さざるを得ない。
超常現象を肯定する→オカシイというなら、あなたは、キリストをオカシイと言っているようなものである。
聖書の中に無数に登場する奇跡をどうあなたは解釈するのか。
ペテロは水の上を歩き、イエスは、わずかのパンと魚で1万人もの群集を養い、水をぶどう酒に変えた。
「いや〜、あれは聖書の時代の話しでしょう。現在は救いが完成しているから・・・」
おいおい、である。
もし救いが完成したから今日奇跡はないというならば、使徒の働きで、パウロやペテロが行った奇跡はどうなるのか。彼らが、行った奇跡は、キリストが十字架について救いが完成した後の話しではないか?
だから、何遍も言うように、「何かを信じるならば、それが聖書に裏付けられているかどうか」を調べなさいといっているのだ。
聖書が裏付けていないことは、どんなに人間の目に賢く見えても、それは、サタンの誘惑なのだ。
「神は、本当にそのように言われたのですか?」とサタンは聞いてくるからである。
我々は、御言葉以外に立つことは絶対に許されない。
もし、私の奇跡今日存在説に反論するならば、受けて立とうではないか。
聖書から、「今日、奇跡は終わった。存在しない。」という説を論証していただこうではないか。
「いやいや、聖書に何もかにも記されているわけではないから」とでも?
おいおい。
もし、それほど自信をもって否定するならば、あなたの主張を立証する証拠が聖書に記されていないというのはどういうわけだ?
聖書から論証できないことをそれだけ自信を持って主張できるというあなたは一体何様なのか?
あなたは、聖書よりも賢いのか?
そもそも、一体、聖書信仰に立つキリスト教の教派の中で、奇跡の今日性を公然と否定する教派があるか?
そんな教派があれば、教えていただきたい。
言っておくが、奇跡の今日性は、キリスト教の基本である。
聖書は、あきらかに今日奇跡は存在すると主張している。
いや、むしろ、我々の生活は毎日が超常現象の連続であると言ってよい。
それでは、尋ねるが、あなたは、祈るときに、独り言を言っているのか?
もし、超自然的な現象が今日存在しないならば、あなたがやっている行為は、単なる独白なのだ。あなたの脳みその中での出来事でしかない。
神との会話を否定するならば、聖霊の内的証明というキリスト教の基本教理を否定することになる。
聖霊は、生まれながらの人間には理解できないことを、「超自然的に」教えてくれる。
聖書だけを読んでも、聖霊の働きかけがなければ、人間は、キリストの贖いについて、聖書の真理について、悟ることはできないというのは、キリスト教の基本中の基本である。
もし、このような「超自然現象」を否定するならば、あなたは、異端である。
「いや、それは、信仰に関することであって、物理的な現象については別であるから」とでもあなたは言うか?
それでは、パウロがコロサイ書で次のように言っているのはどう解釈するか。
「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1・16−17)
イエスは、万物を保持しておられるとはっきりと聖書は主張しているからである。
この宇宙に存在するあらゆる原子分子素粒子は、すべてキリストによって保持され、保たれているという。
このような摂理の信仰は、キリスト教の基本中の基本である。
もし、この摂理の信仰を否定するならば、あなたの信仰は、理神論である。
理神論は、「神は万物を創造したのち、それを自然法則に完全に委ねてしまい、現在、それに対していかなる干渉もしていない」と考える異端である。
神は、霊的な事柄だけにかかわり、物質的な事柄にはかかわらないという考えは、理神論の影響を受けたキリスト教の異端である。
「いやいや、そんなことを言っているのではなく、瞬間移動とか、病気の癒しとか、そういったオカルト的なことは起こらないといっているのですよ。」とでも?
じゃあ、聞くが、ピリポがガザからアゾトまで瞬間移動したのは、オカルトなのか?
それは、サタンの業だったのか?
その証拠はどこにあるのか?
「いやいや、あれは神によるが、今日起こるそのようなことは、サタンによるのですよ。」と?
じゃあ、「あれは神により、これはサタンによる」と示す基準は何か?
あなたは、何をもってキリスト的であり、何をもってサタン的と言うのか?
「救いに関することは神に属するが、救いに関係のないことはオカルトなのですよ」と?
それでは、森本春子師は、救いに関係していないのか?
彼女は、福音を伝えるために働いているではないか。それは、ピリポと同じではないか。どこが違うのか。
「ピリポは使徒だが、彼女は使徒ではないから」とでも?
じゃあ、奇跡というのは、使徒にのみ限定される、つまり、「使徒であることが奇跡を起こせるかどうかの基準だ」と?
それでは、キリストによって派遣された「70人の弟子たち」はどうなのか。彼らのほとんどは使徒ではなかったわけだ。
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」(ルカ10・17)
さあ、聖書から論証してもらおうではないか。今日奇跡はないと主張する諸君!
陰でコソコソ言うのはやめて、堂々と論じ合おうではないか。
もし、こちらが間違っているということを証明できないならば、キミたちは、神の御言葉に逆らうことになるのだ。
もし、神の働きに逆らって裁きを受けたくないならば、自分の主張を証明したまえ。証明できないなら、今日奇跡があるということに同意したまえ。