奇跡はキリスト教にとって絶対不可欠である
いわゆるキリスト教において奇跡と呼ばれるものは、他の宗教におけるそれとは根本的に異なっている。
他の宗教において奇跡は、単なるこけ脅かしである。異常な出来事を見せて、無知な民を驚かせ、信心を深めさせる手段である。
キリスト教において奇跡とは、「宇宙が閉じられた系ではない」ことの表明なのだ。
ヒューマニズムにおいて、人間を超越した決定者がいるとは考えられない。この世界において人間だけが王であり、完全な自由を持つ者である。人間は、神からの干渉を受けなくても十分にやって行けるとヒューマニストは考えている。
近代科学とは、この世界観を証明するための手段であるから、その世界観と矛盾する現象はバンバン切り捨てられる。どの学界においても、「神の創造や存在」を前提とした意見なぞ発表したら「非科学」のレッテルを貼られる以外にはない。
聖書において、自然の法則とは神のしもべである。神が直接にこの世界のあらゆるものを支配してもよいのだが、神はそうされない。神は物体の運動や化学変化などを自然法則に委ねておられる。
それゆえ、神の御心によって、一時的に自然法則を止めて、自ら手を差し伸べて物体の運動を支配されることもある。
イエスの肉体が復活したり、昇天したことは、自然法則を一時的に差しとめて、直接に世界に介入されたから起きたことなのだ。
しかし、ヒューマニストは、「宇宙の外から介入がある」などという考えは、「宇宙は閉じられた系である」というドグマと矛盾するので受け入れられない。
もしキリスト教が奇跡を否定したり、「今日クリスチャンに対して物理的な奇跡は起こらない」と考えるならば、それは、ヒューマニズムの自律的世界観の影響を受けたからにほかならない。
神癒は、使徒のしるしとして起こったものであり、今日そのようなことは起こらないとか、預言は聖書が完結した今日あるはずがない、とか言う教理の背景には、ヒューマニズムの「自律的世界観」がある。
もし、聖書が言うように「この世界は閉じられた系ではなく、超越者なる神からの絶えざる介入と支えがあって成り立っている」ということを信じるならば、今日においても奇跡や預言があることを認めなければならない。
今日においても、自然法則は神のしもべであり、神の権力代行者でしかない。「自然法則を越えたことは今日起こらない」と主張することは、「自然法則は神の創造の始まる前から永遠に存在していたもの=非創造物である」と主張していることに等しい。
このような「自然法則の先在性」という考え方は、ギリシヤ哲学の「自然秩序Natural Order」観と同じであり、それゆえ、キリスト教の神の「無からの創造」と決定的に矛盾する教えなのだ。そのように主張する者は、自らはローマ・カトリックと同類であることを告白していることに等しい。
カルヴァン主義は、アブラハム・カイパーの影響から、今日において奇跡は存在しないと考える傾向があるが、まったく聖書から逸脱しているといわねばならない。このような異教的な思想の混入を許したために、近年、クリスチャンの間で、反動として、奇跡や預言への求めが起こってきたのは当然なのだ。
ただし、この奇跡や不思議や預言への求めが、聖書が述べていることから逸脱して、オカルトまがいのものになる傾向があるのは残念である。あくまでも、神の統治の方法は、「委託」による間接支配である。何もかにも「直接支配」を求めることはできない。例えば医療にかかることは不信仰であり、クリスチャンは神癒にのみ頼らねばならないと考えることはできない。
クリスチャンの自然観とは、「神の基本的な世界支配は、自然法則による間接支配である」ということである。それゆえ、科学は必要不可欠なのだ。奇跡を強調するあまり、科学を軽視する傾向があるのは残念である。
クリスチャンは、「奇跡など今日ないのだ」と考える「ヒューマニズムの自律的閉鎖的世界像」を拒絶しなければならないだけではなく、「神の直接介入だけでよく、自然法則を知る必要はない」と考える「神秘主義」をも拒絶しなければならない。