罪に軽重はあるか?

 

<ご質問>

十戒についての質問です。十の戒め、あるいは罪は罪であっても、罪には軽重があるのでしょうか?たとえば、殺人と姦淫の罪、あるいは盗みと偽証の罪とではどちらの方が重いのでしょうか?十戒の順番には、前後順番を変えれることはできない、本質的な意味があるのでしょうか?より大事な戒め、重い罪の方が先に書いてあるということでしょうか?真の神を神としないことは、殺人や姦淫、盗みよりもはるかに重い罪なのでしょうか?もしそうであれば、どれくらい重いのでしょうか?

 

<お答え>

罪には軽重があります。

それは、モーセ五書において、罪に対する刑罰が異なることを見てもわかります。

例えば、盗みに対しての刑罰は、それを返して償いをすることですが、殺人は死刑です。

しかし、パウロがガラテヤ3・10で「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」と述べているように、律法はその一つでも破るならば、呪われるのです。

つまり、律法は有機的統一体であって、バラバラの規則の寄せ集めではありません。

人間は、神に対して完全に依存し、献身するために創造された者であり、この立場から離れるものは、すべて違反者であり、何を行っても罪になります。

例えば、どんなに生涯において、立派な業績を上げた社会福祉家であっても、神以外のものを神とするなという第一戒を破れば、その福祉事業のすべてが罪です。

ヒューマニズムの善悪観は、非人格的であり、神に対する責任という概念がないので、一つを守ればそれで十分という考えです。だから、「こんなに善を行う人が地獄に行くはずがない。クリスチャンでなければ地獄に行くというのは理不尽だ。」という考えは間違いなのです。

しかし、聖書の善悪観は、人格的であり、すべての善行は神に対する責任の文脈に置かれなければ無意味になると考えます。

だから、幕屋や神殿における礼拝において、「すすんで捧げる供え物」は、まず全焼のいけにえを捧げた者しかささげることはできなかったのです。全焼のいけにえをささげて、神に全的献身をした者だけが、善行を神に捧げることができるのであって、全焼のいけにえをささげていない者や異邦人が善行を神に捧げることはできませんでした。

つまり、まず、キリストの贖いを受け入れ、キリストを主として認め、神に対する全的献身が土台としてなければ、いくら礼拝を捧げて、感謝献金をしたり、会堂献金をしても無意味であるということです。それは、神の怒りを誘う以外にありません。

「すべてのものは血によって清められねばならない」とあるとおりです。

律法は有機的統一体なので、一つでも破れば、全体を破ったのと同然であり、少しの違反でも、血の贖いを必要とします。

だから、クリスチャンは、小さな罪を犯した場合でも、いちいちキリストの十字架のゆえに神に赦しを請わねばならないのです。小さな罪でも悔い改めがなければ、彼は律法全体を破った者ということになり、神の前で義となることはできません。

 

 

01/06/24

 

 

 

 



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