キリスト教と資本主義

 

>我が文中の

>明らかな違い以外は

>多少の誤字へのレス文の屁理屈は

>無視されるよう

>ご了解を願う

 

誤字だけじゃなくて、いろんな点において基礎的なミスを犯しているので、レスします。

 

(1)まず、ユダヤ教において割礼は、七ヶ月後ではなく、男子のみ生後8日目です。

 女子には割礼は施しません。

 

(2)キリストは、個人資産を許さないとはどこにも述べていません。キリストは律法を守れ、と勧めていますが、律法は、私有財産を認めています。「汝盗むなかれ。」ですから。律法は、私有財産を国家に預けよとか共同体に捧げよなどということは言いません。相続財産は、子ども達と、場合によっては家令に、均等分配されました。ただし、長男は父母の面倒を見なければならないので、2倍の相続を受けます。

 土地は、家の相続財産として恒久的に保持することができました。たとえ借金をして奪い取られても、安息年に自動的に自分の家に戻りました。

 

 「キリストに命を預けよ」というのは、個人資産を国家や共同体に移譲せよという意味ではありません。万人は、神の所有であるから、自ら被造物としての地位を確認せよと言っているのです。キリストにいのちを預けた個人は、神の前に私有財産を持つことができますし、それを楽み、思いのままに処分することが可能です。「あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。」(申命記12・18)もちろん、神の法にのっとってという制限はありますが。

 

(3)キリストは、信者を思うままにマインドコントロールしようとしたという事実はありません。もし、あるならば、具体的な証拠を提示してください。

 もし、マインドコントロールすることが認められるならば、信仰とは、強制であり、有無を言わず信じるべきものということになります。しかし、ユダに対しても、キリストは最後まで辛抱強く悔い改めを待っておられた。キリストへの信仰はあくまでも自由意思によります。

 

 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10・9−10)

 

(4)キリスト教は競争の原理を排除しません。資本主義そのものが、キリスト教社会から生まれ、とくにカルヴァン派のキリスト教社会から生まれたということは、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に詳しく分析されています。資本主義の発達した地域と、カルヴァン派のキリスト教を主導的宗教と見なしている国とが一致することを彼は指摘しています。

 とくに、カルヴァン派のキリスト教(ピューリタン主義)に基づいて建国されたアメリカ合衆国が競争原理によって成り立っていることを見ても明らかです。20世紀になって、アメリカにおいても共産主義の非競争原理が入ってきましたが、基本的には現在でも、アメリカは競争を肯定する社会です。

 

(5)キリスト教は、プロレタリアート独裁にしろ、個人独裁にしろ、いかなる独裁をも拒否します。なぜならば、人間は罪人であるため、個人に過大な権力を集中することは危険だからです。アメリカにおいて大統領は、どんなに人気があっても、任期は8年どまりです。長期政権を取ると権力は腐敗堕落するから、という考えからです。キリスト教国においてチェック・アンド・バランスが発達したのは、このようにキリスト教の人間観が基本にあるからなのです。人間のいかなる組織にもチェックがなければ、惰性や甘えによって堕落してしまうので、監視役が必ずつけられます。ブレジネフの時代にソ連に駐在していたことがありますが、ソ連では、競争がないため、粗悪品や劣悪なサービスが横行していました。競争社会において、消費者は商品を選択することによって、企業の業績をチェックします。企業の経営者は消費者によりよいサービスを提供するために、労働者をチェックします。

 

(6)プロレタリアート独裁は、キリスト教から出たというよりも、ヘーゲルの弁証法的歴史発展説から出ています。マルクスは、ヘーゲル左派に属し、ヘーゲルの歴史観を受け継いでいます。ヘーゲルは、歴史とは、絶対精神が、正―反―合という対立と総合の無限の繰り返しによって、自分自身を外化していく過程であると考えました。マルクスは、絶対精神などという思弁を排除し、歴史とは生産を軸として、対立する階級間の闘争の中で、弁証法的に進歩していくものであると考えました。そして、最終段階の共産社会に達した時に、この体制を維持するためにプロレタリアートの独裁を主張したのです。

 しかし、プロレタリアートが堕落しないとは限らないのですから、あんのじょう、社会主義国において、独裁階級はチェックがないために堕落し、弱体化しました。それゆえ、ソ連など社会主義国の国内においては通用したシステムも、世界規模で見れば、商品が売れないため、競争力を失ってついに崩壊してしまいました。

 プロレタリアート独裁の考え方の基本には、ヒューマニズムの人間信頼があります。

 それに対して、キリスト教的社会においては、人間を信頼せず、たえず競争に晒すことによって、堕落や甘えを許さず、商品やサービスを向上させたため、キリスト教的社会は、競争力をつけて生き残りました。日本もアメリカ型のキリスト教的市場システムを導入したために、生き残ることができました。

東西ドイツ、北朝鮮と韓国など、同じ民族に属しながら、片や経済が発展し、片や経済が停滞したのは、国家がどのような人間観に基づいて国造りをしたらよいか教訓を与えているのです。

 

 

 

 



ツイート