メシアニック・ジュー神学の問題点

 

行澤一人氏がJMFの機関紙に置換神学について書いておられた。

 

現在、ユダヤ人が新約の経綸において特別の地位にあることを否定するのは置換神学だと言われる。

 

たしかに、ユダヤ人が民族的に神から現在でも選ばれている民族であることは否定できない。聖書がそのように述べているから。召しと賜物は変わらない。

 

私がなぜ、メシアニック・ジュー神学を、クリスチャンの間に一級市民と二級市民の区別をする神学であるというかと言えば、それがディスペンセーショナリズムのプレ・ミレを信じているからである。ジョン・D・ガール博士の書物を読んでも博士はディスペンセーショナリズムのプレ・ミレを前提として論を展開しておられる。メシアニック・ジューの、アリエル・ローレンス・ブルーメンソール氏も、「ディスペンセーショナリズム…は、メシアニック・ジューの人たちも基本的には信じています。」と述べている。ディスペンセーショナリズムを基本的に信じているということは、ディスペンセーショナリズムの中心教義も受け入れているということであるので、メシアニック・ジュー神学はディスペンセーショナリズムの持つ中心的な欠陥を共有していると考えられる。

 

ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレは、将来キリスト再臨の後の千年王国において、ユダヤに神殿が建ち、ユダヤ教が復活すると言う。ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレの総本山ダラス神学校の校長であったルイス・スペリー・チェイファーは、教会時代の後に「ユダヤ教が回復する」(Systematic Theology, 1948,Dispensationalism, p.46)と述べ、同じくダラス神学校のメリル・F・アンガーは、「キリストの再臨のとき、ユダヤ教の制度が回復する。それは・・・旧約聖書の時代よりもはるかに栄光と霊性に富むものとなるだろう。再建されたユダヤ教の中心は、千年王国の神殿であり、そこにおいてユダヤ教は最終的な発展を遂げるであろう。」(Bibliotheca Sacra, Jan.-March, 1950)と述べている。

 

ここにおいて、言われているのは、明らかに、旧約聖書の民族的経綸の復活である。旧約聖書において、神は、ユダヤ民族を「救われた者」とし、異邦人を「救われない者」として扱っておられた。つまり、今日においてクリスチャンとノンクリスチャンを分けるような、一級市民と二級市民の上下の区別は、旧約聖書においては、民族を基準として行われていた。だから、ユダヤ人と異邦人は、「神に愛されている者」と「見捨てられた者」の区別であった。

 

しかし、新約聖書においては、このような民族による区別は撤廃された。誰でもイエスを信じる人は、神の民であり、愛された者、救われた者になる。民族を基準とした、一級市民と二級市民の区別はない。

 

これは、誰も反論できない事実である。

 

しかし、ディスペンセーショナリズムは、ユダヤ教の復活を主張することによって、民族的な経綸をも復活させる。なぜならば、ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレの主要な主張は、神殿がエルサレムに再建されることにあるから。マタイ24章の預言は、終末に関するものであると彼らは主張し、もう一度、エルサレムに神殿が建つという。

 

しかし、当然のことながら、もう一度神殿が建つということは、建物だけが記念館やテーマパークとして建つということを意味していない。聖書において、神殿と祭儀と宗教教義とは不可分である。神殿だけが建って、そこで、祭儀、そして、宗教教義が復活しないはずはない。

 

事実、ディスペンセーショナリズムは、エゼキエル書40−48章の文字通りの解釈を主張することによって、千年王国において、ユダヤ人は、神殿において動物犠牲を復活させ、そこで贖いをすると主張する。すなわち、「ツァドクの子孫」が神殿において再び仕え、「罪のためのいけにえとして若い雄牛一頭」を捧げ「その血を取って、祭壇の四本の角と、台座の四隅と、回りのみぞにつけ、祭壇をきよめ、そのための《贖いをしなければならない》」(40・46、43・19−20)と。

 

神殿と、犠牲制度が復活したら、その犠牲制度全体を貫くユダヤ人と異邦人との民族的区別の思想も復活すると考えないわけにはいかない。なぜならば、聖書の言葉はパッチワークではないから。

 

紀元70年に神殿が崩壊したのは、単に軍事的・物理的な現象ではなく、神の経綸の変化を象徴しているのだ。神殿崩壊は、宗教制度全体が変化したことを象徴している。

いくら、メシアニック・ジューが、「一級市民と二級市民の区別をつけるようなことはしない」と主張しても、千年王国においてエルサレムに神殿が再建されると主張することによって、民族的経綸の復活をも主張していると解釈されてしまう。

 

ちなみに:イエスやパウロは、「イエスの肉体と、クリスチャンの肉体こそ神殿である」と主張している。なぜ、再び神殿が必要なのか。イエスが十字架上で犠牲としてほふられた。なぜ、再び神殿で犠牲が捧げられるのか。至聖所と聖所との間の隔ての幕は、イエス・キリストが罪を贖ってくださったので真っ二つに裂けた。なぜ、再びそれをつなぎ合わせて、神との間に隔てを設けるのか。

 

 

 

 



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