いわゆる「キリストの愛を証しする感動本」の問題

 

 最近、あるスラム街で伝道している伝道者の手記を読んだ。

 大変感動的なのであるが、ただ一つ心配になることがあった。

 刃物を持った男が教会に侵入してくることがよくあるそうだ。

 そこで、愛によってもてなすと、おとなしくなってキリストを信じて回心するという。

 さて、聖書を読まずに、このような手記ばかり読んでいると、誰に対しても「力には愛を。」「暴力には無抵抗を。」という態度がキリスト教であるというような誤ったキリスト教観が形成されてしまうのではないか。

 三浦綾子の小説からキリスト教を理解する人もこのように考える傾向が強い。

 「塩狩峠」の主人公は、盗みを働く同僚に徹底した愛を実践しようとして愛の難しさを悟る。

 クリスチャンは、どこまでも罪人を愛して、赦さなければならないそうだ。

 国家は、殺人者を殺してはならないのだろうか。

 ウソつきを罰してはならないのだろうか。

 泥棒を罰して償いを要求することは罪だろうか。

 聖書は、そのようなことを述べているだろうか。

 「血を流すものは、血を流される。人が神の形に似せて作られたがゆえに。」と書いてあるのではないか?

 「偽証してはならない。偽証して人を貶めたなら、その人が被るのと同じ刑罰を偽証者に課せ。」と書いていないだろうか。

 「泥棒したら、それを返し、応分の償いを支払え。」と書いていないだろうか。

 このスラム街伝道の本を読んだのは、車のディーラーであるK氏に推薦されたからであった。K氏は、このような愛の人にならなければならないと言う。

 さて、これまで、K氏に幾度と無く大きな迷惑をかけてきた男がいる。

 K氏の車を乗り逃げし、必ずお金を持ってくると何百回も(ホント!)ウソをつき、無免許(何年も前に失効)で車を運転し、つかまっても調書に他人の名前を書いて逃れ、公文書偽造で逮捕されたが、その責任をK氏に負わせ、「おまえが警察にタレ込んだから俺は逮捕されたんだ!」と3分おきにいやがらせ電話をかける・・・。どうしても逃れられないとわかると、急にしおらしくして、涙を流し、「悔い改めて教会に行きます。」と教会で洗礼を受けるが、K氏の名義で借りた高級車の代金を支払うのがいやなため、K氏について偽りの情報を流して、K氏を除名にまで至らしめ、社会的な信用を失墜させる。

 この男のおかげで、K氏は、取引先を失い、教会を追い出され、リース会社から毎日のように督促され、ローン会社から取り立ての電話に苦しめられている。

 それにもかかわらず、K氏は、「彼がもう一度悔い改めて立ちかえってくるなら、また私の名義で車を貸してあげよう。」と言っている。

 この言葉を聞いて、この一件で会社を首になりそうになっているリース会社の社長は、「Kさん、言語道断ですよ。そんな甘いことを言っていてはだめです。車を取り上げて、今までの未払い分を全額払わせた上で、関係を完全に絶ってください。」と談判した。

 もう9ヶ月も未払いを続け、それを正当化するために、K氏を中傷して、社会的な信用を失墜させた男が悔い改めて流す涙は「ワニの涙」である。

 彼は、クリスチャンのあわれみ深さに付け込んでいるだけなのだ。

 クリスチャンは、このような悔い改めをも受け入れるべきなのだろうか。

 イエスは、弟子達を伝道の旅につかわすさいに、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊を狼の中に放り込むのと同じことである。だから、ハトのように素直に、蛇のように賢く振るまいなさい。」と言われた。

 何でもかんでも人にあわれみをかけるのが、あわれみではない。

 そのあわれみを利用しようとするような人間には、あわれみをかけてはならない。

いわゆる「キリストの愛を証しする感動本」は、キリスト教理解をゆがませ、人を無律法主義者に変える傾向が強いので注意が必要である。

 

 

 



ツイート