生い立ちが悪けりゃ、殺人も許される?

 

 よく、殺人犯の生い立ちとか、バスジャック事件で人を殺した子供の過去や心理などを解説しているコラムなどを見かける。

 「少年は孤立感を深めていた。」とか「いじめが原因であった。」などと分析しているが、そんなこと、犯行とはあまり関係ない。

 犯行は犯行である。殺人を犯したら、その殺人という事実に注目すべきである。

 「いじめが原因で孤立し、ひとり部屋に閉じこもって、両親に暴力を振るうようになり、ついに殺人を犯した」というストーリーを読まされて、だから?としか答えようがない。

 小さい時にいじめられていたが、大人になって立派に社会生活を送っている人もいるし、子供のころに孤立し、ひとり部屋に閉じこもりがちだったが、職業を得てまじめに働いている人もいる。

 いじめられたからといって、殺人が許されるわけではない。

 そんな理屈が通用するならば、どんな罪でも、言い訳が可能である。

 「tomiさん。厳しいですねえ。」と言われるかもしれない。

 しかし、彼らに殺された人の体験した恐怖と、苦痛と、未来をすべて奪われた悔しさ、御家族の無念、離別の苦しみに思いを致せば、「そんないじめられたくらいで・・・。自分で立ち直れ。」と言いたくなる。

 違いますか?

 殺人犯に同情するエネルギーがあるならば、それを、何も悪いことをしていないのに殺された人々やそのご家族の無念に思いを致すほうに振り向けていただきたい。

 もしそれでも殺人犯に同情したいのであれば、「じゃあ、自分や、自分の妻、自分の息子、娘が殺されたらどう思うだろうか。」と考えていただきたい。

 まじめに働き、未来を目指して懸命に生きている自分や自分の家族が、仕事もせずにブラブラ遊んで暮らしている少年の一時のきまぐれによって無惨に殺されたと仮定して、それでも、犯人の生い立ちに同情できるなら、それはそれで筋が通っているだろう。しかし、「こと自分のことになると別である」ということなら、それは、けっして「同情」ではない。単に、事件や事件を取り巻く現実や問題について「無関心」であるというだけなのだ。

死刑反対論者とは、こういった無関心な人々の気を一生懸命引こうとしている、人の痛み・苦しみに対して極めて鈍感な人々なのだ。

 

 

 



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