無神論者は偶像礼拝者か?

 

<ご質問>

こんばんは、今日は関連性があるわけではないですが2つの質問があります。毎回、たいへん丁寧で聖書的なご回答をいただき感動しています。

(1)ヨエル書410節に「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」とあります。これはイザヤ書24節と全く反対の預言です。クリスチャンはこれらの預言をどのように受け止めるべきでしょうか?

(2)聖書には無神論者を神様がどのようにみなされるかについてどのように書かれているのでしょうか?無神論者は偶像を拝むわけではなく、福音も含めたあらゆる宗教を否定します。ですから、無神論者は偶像崇拝とは違うように思えます。

 

<お答え>

(1)

ペテロはこれを字義通り解釈して実際に「剣二振り」を取りましたが、イエスは「それで十分」と言われました。また、その剣で大祭司のしもべに切りかかって、片耳を切り落としましたが、「やめなさい。剣を取る者は剣で滅びる」と言われました。

当時のユダヤ人は、大なり小なり愛国主義者で、「選民である我々が、なぜ他国の支配を受けなければならないのか。我々はいずれ偉大な支配者となるのだ」と考えていました。イエスは、このような右翼的愛国主義を批判されました。「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」という教えは、「あなたがたは、『自分は選民だ』と言って自負している。そのような高ぶりを捨てなさい。」と同義なのです。ローマ兵に強制賦役を課せられたら、かえってそれ以上のことをしてあげなさい、と言われたのも同じことです。民族的なプライド、私的復讐心から、民族の再興、覇権を求めることは間違っていると述べておられるのです。

イエスの国は、「この世のものではない」(ヨハネ1836)のです。この世のものではない、というのは、「この世界と無関係なものである」という意味ではありません。もし無関係ならば、「御心が天で行われるように地上でも行われますように」とか、「すべての国民を弟子とせよ」、さらに「地を従えよ」との命令と矛盾します。

「この世のものではない」という意味は、「この世的な方法、肉的方法、人間的策略、人間的力によってもたらされるものではない」ということです。つまり、武力や巧みな話術や、政治力などでもたらされるものではない、ということです。

「権勢によらず、能力によらず、ただ我が霊による」(ゼカリヤ46)のが、神の御国の方法です。ペテロは、この点を誤解したので、ヨエル書の預言を文字通り受け取って失敗したのです。

そのペテロも、イエスの復活後にはこの真理を理解し、ヨエル書415節「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」を、「この世的」に解釈せず、霊的に解釈しました。つまり、文字通りそれを天体の激変と解釈せず、ペンテコステの日において成就したと述べたのです。

「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『…主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」(使徒218-21

聖書の字義的解釈がいかにクリスチャンを誤らせるかはこのペテロの失敗を見ても明らかです。

 

(2)

聖書は、無神論者を「愚か者」と呼んでいます。

「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」(詩篇141

彼らは、堕落した人々であるとも言われています。

「彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」(同上)

無神論者は、高慢な悪人です。

「悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは『神はいない。』の一言に尽きる。」(詩篇104

偶像礼拝について、十戒は、第一戒において「礼拝対象」について、第二戒において「礼拝方法」について規定しています。

偶像礼拝とは、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、ヤーウェ神以外のものを拝む」ことであり、ヤーウェ神が定めた方法以外の方法でヤーウェ神または他の神を拝むことを言います。

「偶像を拝む」とは、ただ「跪拝行為」だけを意味するのではなく、その神が定めた「法」を破ることも指します。

「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――」(エペソ55

「神はいない」という者は、「腐っており、忌まわしい事を行ない」、「善を行な」わないのですから、偶像礼拝者です。

 

 

02/03/19

 

 

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