ハーザー誌への校正原稿です
死後にセカンドチャンスはあるか?
富井 健
はじめに
この問題については、読者の皆様に誤解を持たれないために結論をまず申しあげたい。
私は、死後にセカンドチャンスがあるということも、また、まったくないということも、どちらも聖書ははっきりと語っていないと考える。はっきりと語っていないことについては、我々もはっきり語ることはできないとし、自分の発言を聖書によって厳しく制限しなければならない、と考える。
死後の世界と聖書
そもそも、死後の世界のような超自然の事柄について、我々は、聖書以外に正当な情報源はいっさい与えられていない。たとえ誰かが死者と会話したと言っても、その霊が本当に死者のそれであるのか、それとも幻であるのか、それとも悪霊であるのか、また、その死者と思われる霊が述べたことが、死後の世界についての正確な情報であるのか、それとも悪霊の惑わしであるのか、それとも単なる空想であるのか、有限な被造物である人間には、検証する術はまったくない。我々は、自然の世界について科学的方法によって検証する可能性があるが、超自然の世界については、その術はまったくない。それゆえ、超自然の世界については、それについて完全な知識を持つ神の啓示に全的に依存する以外にはない。つまり、「聖書を越えず、聖書を無視せず、聖書が強調するとおりに強調し、聖書が強調しないとおりに強調しない」との、「神の奥義の忠実な管理者」(1コリント4・1)の大原則を忠実に守ることである。異端は、この原則を破ったところから起こる。異端者とは、「私の常識、意見は、聖書を超え、拡張し、否定し、それを塗りかえ、強調の度合いを変える権利がある」と大胆に宣言する人々である。
死後の救いを主張する人々は、「聖書に書かれていないことを言うべきではない」とする姿勢を「字句にとらわれた狭い聖書解釈の方法であって、聖書に忠実であろうとして、かえって神のメッセージを見失っている。」というが、これは異端に道を開く非常に危険な意見である。異端者はしばしば「文字に拘るな」と言い、「神のメッセージの本質を読み取れ」ともっともらしいことを言って、クリスチャンを聖書から引き離そうとするものである。
たしかに、字句に拘泥することはできない。聖書のすべての個所を文字通り解釈することなど不可能である。「恵みは千代まで」という個所を文字通り「恵みは字句通り一千世代(1000 X 約30年=約3万年)続く」と解釈できない。「聖書は、聖書によって解釈する」というのが正しい原則なのだ。聖書が最高権威である以上、聖書の中で分かりにくい個所が出てきた場合、それを他の聖書個所と比較し、また、聖書全体の主張とも照らし合わせて総合的に解釈する以外にはない。
例えば、死後の救いのチャンスを主張する人々の中には、「江戸時代の人々は福音を聞いたことがなかったのだから、彼らは死後に救いを受け入れるチャンスを与えられるはずだ」という人がいる。この見解が正しいかどうかは、聖書を見る以外にはない。「福音を聞いたことがないままに滅ぶ人々は可哀想だ」というような個人的な主観や感情によって判断することはできない。「愛の神ならチャンスを与えないままに人を滅ぼすことなどされるはずがない」という推測も、他の聖書個所と比較し、検討したうえでなければ採用してはならない。
なぜならば、我々の理性は自分の都合に合わせて神観を変えるほどに堕落しているからである。偶像礼拝者の特徴は、自分の好みに合わせて神を作り変えるというところにある。彼らは自分の意見を優先し、自分の気持ちが落ち着くために、神に命令する。「わたしは、あなたにこのような神になって欲しい」と言って。だから「愛の神」という言葉も、聖書の制限をつけないで語ることは極めて危険であり、常に聖書からのチェックが必要なのだ。
我々、戦後日本の教育を受けた人々は、ヒューマニズムに強く影響されている。ヒューマニズムが説く「人間中心主義」「幸福中心主義」は、我々の脳裏に深くしみついている。たしかに、神は愛である。しかし、その一つの属性だけを取り出して神を定義すると、神の愛をもっぱら自分の幸せのために利用することになりかねず、自分たちが知らず知らずのうちに聖書の神ではなく、異教の神(偶像)を礼拝してしまうことにもなりかねない。
聖書が教える神中心的世界観
聖書が啓示する神とは、「愛の神」であると同時に「選びの神」でもある。万物は神によって無から創造され、それゆえに、ことごとく神の栄光のために存在する。世界は、人間の幸せのために存在するのではなく、(語弊があるが)神の幸せのために存在する。我々は、視点を自分に置くのではなく、神に置くべきである。世界を、自分を中心に回すべきではなく、神を中心に回すべきである。なぜならば、人間は創造者ではなく、それゆえに、宇宙の中心になれないからである。それに対して、神は創造者であり、宇宙の王座に着くべきお方だからである。
神は、永遠の昔に、この地上に生まれてくるすべての人間を二つのカテゴリーに分類された。ある者は「憐れみの器」として作られ、ある者は「御怒りの器」として作られた(ローマ9:21-24、11-18)。しかし、どちらも神の栄光を現すための器である。「憐れみの器」は、救いの恵みにあずかり、それを神に感謝することによって神の愛の御性質を現す。また、神のために積極的に働き、神の御支配を拡大し、その栄光を地上において現す。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2・10)
「…天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6・9-10)
「憐れみの器」が主に神の愛を現すために創造されたのに対して、「御怒りの器」は神の義を現すために創造された。「御怒りの器」は神に感謝せず、御国に逆らい、悔い改めず、ついに、その悪行を裁かれ、御怒りを下される時に、神が義なる御方であることを証しする。神は万人を平等に愛しておられるわけではなく、ある特定の人々を選び、救いのチャンスを与え、救い、永遠のいのちをお与えになる。神は悪人をも創造し、彼を裁くことを通じて御自身の栄光を現される(ローマ9・17、箴言16・4、詩篇92・7)。悪人たちは、黄泉(及び、再臨の後に地獄)において主が自分の悪行を正しく裁かれたことを証しし、神の義を示す(ピリピ2・10、黙示録5・13)。
この神の側における一方的計画に対して、「御怒りの器」は「神よ。わたしをどうしてこのような者に予定されたのですか?あなたの計画に逆らうことがなぜできるでしょうか。」と尋ねるかもしれないが、それは被造物として発してはならない質問である。
「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(ローマ9・20-21)
我々被造物は、創造者の計画に対していっさい異議を唱えることはできない。
聖書は、徹底した神中心主義によって貫かれている。真に神を主として崇める人は、この世界観を受け入れられるはずである。
救いは一方的な恵みである
パウロは、救いが神の側における一方的な働きかけによることを教えている。
「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたもので(す)。」(2テモテ1・9)
救いは、「ご自身の計画と恵みとによる」のであって、「私たちの働きによるのではな」い。救いの主導権は、完全に主の御手にあり、我々はもっぱら「選ばれるだけ」の受動的存在である。救いの恵みは、「永遠の昔に与えられたもの」であり、それは一方的な賜物である。「神は愛の神なのだからすべての人々に同じチャンスを与えるはずだ」という意見を述べる人々は、神を自分の常識や感覚によって定義している。
聖書は、「罪を犯した人間は、あわれみをかけられることなく、また、救いのチャンスを与えられることもなく滅びるのが当然。救いは神の純粋な恵みである。」という基準から出発している。しかし、死後に救いがあることを主張する人々は、「罪を犯した人間は、救われるのが当然。救いは神の義務である。」という暗黙の基準から出発しているように見える。だから、福音を聞く機会のない人々がいることに不満を持つのであろう。しかし、聖書は、罪を犯した人間は、福音も何もないままに裁きの座に直行し、そこにおいて永遠の刑罰を受けるのが当然と述べているのである(へブル10・28)。日本の法律において、窃盗を犯した人が現場で見つかったら、逮捕されて裁判にかけられるのが当然であるのと同じである。その窃盗犯は、「私は許される権利がある」とは言えない。自分の隣の監房に住む受刑者が恩赦によって釈放されたときに、「なぜ私には恩赦がないのか。」とクレームをつけることはできない。彼は有無を言わずその行いに応じた刑罰を受けるべきである。彼には、恩赦を受ける権利などない。
それと同じように、罪人には、福音を聞く「権利」はいっさいない。福音とは、「赦される権利が全くない者に対する神の純粋な恵み」である。もし罪人が福音を聞く権利があるとすれば、それは「恵み」ではなくなってしまう(ローマ11・6)。聖書においてしばしば「恵み」とは、「律法」の対立語として登場する(ローマ4・14-16)。律法が義務を伴なうのに対して、恵みとは完全に義務から離れた行為、純粋な自発的行為であり、それゆえ、救いとは神の側の一方的なあわれみである。
だから、江戸時代の人々は、生前においても死後においても、福音を聞く「権利」はまったくない。彼らが福音なしで永遠の刑罰にあったとしても、神の側に不正はいっさいない。罪人は、罪を裁かれるのが当然であり、たとえ赦しがあったとしても、それはあくまでも赦す側の「純然たるボランティア」である。永遠の裁きにある罪人は、「私は福音を聞いていませんでした。救われるチャンスがないなんてあまりにもひどいではないですか?」と言う権利はない。永遠の救いにあずかった罪人は、「私には救われるチャンスが与えられたのに、なぜあの人には与えてくださらなかったのですか?」と文句を言えない。彼は「神様!私のような罪深い者は、一切の権利を剥奪されて、処刑され、滅びるのが当然です。それなのに、あなたは私に特別の恵みを下さり、救ってくださいました。ありがとうございます。」といわねばならない。
死後の救いのチャンスについて考えるには、このように、まず聖書が救いについてどのように述べているかに着目し、その教えから一歩も逸れないようにする必要がある。人間的な「憐憫」を基準にしてはならない。「罪人には、救われる権利も、救われるためのチャンスを与えられる権利もいっさい存在しない」という聖書の基準を堅持せずに、神の救いについて考えるならば、当然の帰結として、充分な聖書的裏づけのない死後の救いの教理が浮上してくる。
ユダは救われるか
ユダの運命について考える場合にもこの原則は適用される。
ユダの犯した罪は「主を裏切る」という極めて重い罪であり、彼はあわれみを受けることなく滅びるのが当然である。「愛ある神は、ユダをも救うはずだ」という憶測は通用しない。ユダは、自殺することによって、神の恵みを自ら拒否した。これによって、最後に残された神からのチャンスを拒絶した。たしかにユダは「罪のない人を裏切ってしまった」と後悔した。しかし、これは「後悔」であって、「悔い改め」ではない。「悔い改め」とは、謙遜になって、御許に立ちかえることである。放蕩息子が救われたのは、身を低くし、恥を忍んで父のもとに帰ってきたからである。父のもとに帰らなければ彼は異郷で孤独のうちに死んだだろう。ユダには、このような放蕩息子がもっていた謙遜さがなかった。彼は自分の犯した行為を後悔したが、その高ぶりのゆえに主のもとに帰ってこなかった。
このような傲慢な魂が救われる可能性はまったくない。同じように裏切ったペテロら弟子達は、謙遜になり悔い改めて立ちかえったから赦された。しかし、ユダはその傲慢さのゆえに自ら救いのチャンスを奪うことによって永遠の刑罰を受けるにふさわしい者になった。
聖書において、ユダが救われる可能性を示唆した個所は一つもない。彼は「滅びの子」であり、「滅んだ」とハッキリと記されている。
「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」(ヨハネ17・12)
また、ユダはのろわれたとも言われ、「生まれなかったほうがよかった」とも言われている。
「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26・24)
このように神の側からの度重なる愛の申し出を拒み、「滅びの子」「のろわれた者」とすら呼ばれた人間が、黄泉における死後の宣教において救いを得る可能性があるとするのは、明らかに逸脱であり、聖書全体の主張と大きく矛盾する。しかも、金持ちとラザロのたとえ(ルカ16・20-31)おいて、主は、パラダイスと黄泉との間には越えることのできない深い淵がある、諦めよと言われ、実質的に「死後の救いの可能性」を否定している。
「そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」(ルカ16・26)
また、たとえ死者が復活して、生者に対して警告を与えたとしても、もし聖書を信じなければ、けっして悔い改めることはない、とも言われた。
「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」(ルカ16・31)
つまり、生前において、聖書のメッセージを拒むような者は、死後の世界があり厳しい裁きが存在することを知ったとしても、悔い改めに至ることはない、と言われている。救いの鍵は聖書のメッセージにあり、救いのチャンスは生存中だけである、ということをこの譬話は暗示している。
第1ペテロと死後の宣教
では、第1ペテロ3章19、20節、4章6節はどのように解釈すべきだろうか。
3章19、20節において、キリストが黄泉に下って、ノアの時代に箱舟に乗らなかった人々に宣教されたと記され、4章6節において、彼らが宣教によって「霊的に復活する」ためであったと記されている。しかし、これらの個所において述べられているのは、黄泉に住むすべての人々についてではなく、「ノアの時代に箱舟に乗らなかった人々」だけである。その他の人々についてはいっさい触れられていない。また、その宣教が、毎日次々とやってくる死者に対して日常的に行われているかどうかも記されていない。
ラザロと金持ちの譬において、死後の状態に変化はないと告げられていることを尊重するならば、また、「黄泉における宣教」を裏付けるような個所が聖書の他の部分に存在しないことを考慮に入れるならば、この個所だけから安易に「すべての黄泉の住民が救われる機会がある」と結論づけることはできない。
我々は、「一つの聖句から教理を導き出すことはできない」という聖書解釈の基本原則を尊重する必要がある。教会がこの教えを歴史的・基本的信条に取り入れなかったのは、明らかに聖書の他の個所からの充分な裏づけが得られなかったからである。むしろ、聖書信仰の教会は、それと逆のこと、つまり、「聖書は、死後の救いのチャンスを教えているというよりも、それがないと教えている」と考えてきた。
死後のセカンドチャンスと伝道
さらに、伝道ということを考慮に入れるならば、聖書がなぜ死後の救いについて沈黙しているかが明らかになる。我々の心には怠惰の性質が残っているので、もし死後の救いのチャンスがあるとハッキリ啓示されているならば、人々は、宣教の業を神による直接的働きかけに委ねてしまい、地上の国民をキリストの弟子とする働きは支障をきたす、と神はお考えになったのであろう。
もし死後にセカンドチャンスがあるならば、なぜ、宣教師がジャングルの奥地にまで足を運んで、生命をかけて伝道しなければならないのか?そんな危険を犯さなくてもよいではないか。神が死後に直に死者に福音を伝えてくださるならば、宣教団体は、「ああ、この地域は国境紛争もあり、風土病が多く、これまで宣教師が何人も亡くなっているから、これは死後の神様による直接宣教に任せて、我々のターゲットは文明地域に限定しよう。」ということにならないだろうか。「死後のセカンドチャンス」は、大宣教命令を根底から覆す恐れがある。この教えは、一見すると、「神の愛」を説いているように見えるが、根底において、伝道のモチベーションを著しく下げるので、バルト神学の普遍救済主義のように、教会の発展を大きく阻害する教えであると思われる。
再臨に関して、聖書は、クリスチャンが怠惰になったり、慢心することのないように、時期を明記していない。これと同じように、宣教に害を及ぼす恐れのある教えを聖書に明白に記さなかったと考えるべきであろう。
結論
我々は、聖書が語るところを越えてはならない。聖書が強調していない事柄については強調すべきではない。神は我々を預言者として召してくださった。預言者は、神の御言葉を忠実に伝えなければならない。自分の主観や感覚や気持ちによって、強調点を変えて、聖書がそれほど触れていないことがらについて、ことさらに詮索し、聖書全体の教えと矛盾する恐れのあることを人々に伝えるべきではない。どれほど人間的に見て、それが愛のある行為に思えても、聖書が詳しく語っていない事柄によって人々を慰めるべきではない。神が設定された制限を踏み越えることは、短期的に見れば人々を慰め、安心を与えるかもしれないが、長期的に見ればマイナスの効果を生む。それは、カトリックが行ったマリア崇拝導入という失敗例を見ても明らかである。もし、信徒や未信者が「福音を聞かずに亡くなった自分の親族は地獄に行き、救いのチャンスはもうないのか」と質問してきたならば、「残念ながら、それは聖書にははっきり書いていないので確かなことは言えません」としか答えることはできないように思われる。聖書に忠実であることは、神の国建設の最短コースである。人間的方策に対する徹底した絶望がない限り、日本における伝道が成功することはない。
02/05/22