長旅と最終報告
by ゲイリー・ノース
マタイ
25章に記された次のたとえ話は、大量の金を働き人に預けて旅に出たある金持ちの物語である。これは、財産の管理が長期にわたるということを示している。ギリシャ語のテキストは、御国については触れていない。賢明にも、翻訳者たちは、このたとえ話が御国の描写でもあると考え、この語句[すなわち、『国』]を挿入した。
再び、イエスは、弟子たちに向って「勤勉な働き人であれ」と言われた。この警告は、歴史を通じてすべてのクリスチャンに当てはまるが、同じように、イエスの時代のユダヤ人にも適用された。彼らの長い長いテストの期間は、終わりに近づきつつあった。彼らは、すぐにも管理報告を提出しなければならなかった。御国は、彼らから取り去られて、教会に明渡されようとしていた。
ルカの平行個所において、次のような言葉が付け加えられている。「しかし、御国の民は彼を憎み、彼に使いをやってこう言った。『私たちは、この人に王になって欲しくはありません。』と。」(ルカ
19・14)王は、彼らに最終審判を下した。「しかし、私が王になることを望まないこれらの私の敵どもをここに連れてきて、私の目の前で殺しなさい」(ルカ19・27)。ルカでは、この哀れな管理人は、マタイのように(マタイ25・30)、外の暗やみに放り出されたとは述べられていない。彼が持っているわずかな財産はすべて奪い取られ、もっとも利益をあげたしもべに与えられた(ルカ19・24)。ユダヤ人は、文字通り紀元70年に死んだ。未来の最後の審判において、契約違反者たちは第二の死を経験するだろう。「そして死と地獄は火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。そして、いのちの書に名の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20・14-15)。どちらの福音書も、このたとえ話において「利益をあげたしもべたちが、その行いに応じて報いを受け取った」と述べている。
「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ
25・21) 「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」(ルカ19・17)これは、地上において生命が続くことを示している。
彼らは場所を移されたとは書いてない。歴史において彼らが受けたものによって、彼らはさらに大きな権威を与えられ、それゆえ、審判後の世界においてさらに大きな責任を与えられるだろう。これは、復活後の世界が、――悪人がいないという点(これは大きな不連続である)を除けば――現在の世界と連続していることを示している。旧約のイスラエルに最後の審判が下った時、教会は御国に関するあらゆるものを相続した。復活後、教会は地を継ぎ、地は神の御国となるだろう。
紀元
70年に起こった旧約のイスラエルの終焉は、同時に教会が神(または天)の御国の称号を独占するようになった開始の時でもあった。旧約のイスラエルの遺産を紀元70年に受け継いだ相続者は、教会よりほかにいなかった。この御国は、歴史の中でなおも働いている。「金持ちが出発し、長旅を終え、帰宅した」という物語は、「御国は、教会によって拡大される」という真理を示している。次の管理報告は、最後の報告となるだろう。それは、聖書が神(または天)の国として描く長期の歴史を締めくくる出来事となるだろう。教会にとって、旧約のイスラエルへの裁きはすぐにやってきた。しかし、このたとえ話に登場するのは、長旅に出かける主人である。つまり、イエスは、未来において訪れる二つの裁き――旧約のイスラエルへの裁きと最後の審判――を見ておられた。イスラエルは長期にわたって不忠実な管理を続けた。裁きはその絶頂において訪れた。最後の審判は、教会の長い管理の絶頂において訪れるだろう。
02/01/14