今日の啓示軽視の風潮は非常に危険である
今日の福音主義や、聖霊を強調する動きは、再洗礼派のラジカリズムと同列に置くことができるほど、非正統的です。
彼らが、教会史において、ラジカリストしか信じてこなかったプレ・ミレをありがたがっていることを見ても明らかです。
ハーザー誌や、奥山氏が、改革派を否定し、文化命令をも否定し、さらに、なんと、「正統派」そのものを否定したのは、象徴的でしょう。
キリストは、ペテロやパウロなどの当時の
13人の弟子だけを「使徒」として任命したのに、使徒職が今日でも存在するとする人々がいますが、これは非常に危険です。キリストは、御自身の証人として任命されたのは、「御業の直接の目撃者」である彼等だけでした。すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。(使徒 1・22)
それを目撃した者があかしをしている。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである(ヨハネ19・35)。
そして、聖書の正典性は、彼らによって記されたかどうかによって決定されたのです。それゆえ、私たちにとって、正統であるかどうかは、聖書に立脚しているかどうか、それを権威として認めるかどうかにあるのであり、今日のクリスチャンたちが聖霊によって直接に教えられるとか、預言されたとかということではありません。
今日の預言運動の異端性は、彼らが預言を聖書と切り離しているということにあります。「いや、聖書を重視していますよ。」と言うわりには、勉強している預言派牧師がほとんどいません。彼らは、「極めて」聖書について無知であり、神学や教会史について無知です。
パウロははっきりと、預言は、「吟味されるべき」ものであると述べています。つまり、我々が預言として述べること(牧師の説教も含む)は、すべて聖書によってチェックしなければならないのです。数人の男女が集まって、無い知恵をしぼって吟味しても話になりません。彼らは、それが聖書的であるかどうかをチェックしなさいということなのです。
今日の啓示軽視の風潮は非常に危険です。
01/07/16