新カント学派について

 

<ご質問>

 それでは、新カント学派はどう捉えればよいのでしょうか。

 

<お答え>

 新カント学派は、

 ヘーゲル哲学から経験科学を守るためにはどうすべきか、ということを問題にした。

 当時、ヘーゲル哲学によって学問の再編成が行われようとしていたが、実証主義者から強烈な反発が起こった。

 「哲学は思弁である。事実に則さねばならない。」と。

 

 今度、実証主義者が勢いを増していくと、自然科学的な分析的・還元論的方法論が、幅を利かせるようになり、社会科学の総合的・直感的方法論を確立する必要が出てきた。

 

 これらの必要性が、新カント学派を生んだと思います。

 

 つまり、カント以降、新たに登場した様々な思想の流れを前にして、もう一度、人間認識について再定義をして、整理する必要が出てきた。

 

 

まとめて言うと、

 

ロマン主義は、当時の科学理念の攻勢を前にして、人文科学の方法論を確立するという1つの課題に答えたものでもあった。しかし、それが総合的・直感的であるがゆえに、それを元にして自然科学の領域まで大きな影響を与え、ロマン主義の世界観によってあらゆるものを弁証論によって解釈する風潮が出てくるようになると、自然科学者から猛烈な反発が起こった。『科学は事実から出発せねばならない』と。しかし、彼らは、ただ単に「事実に即せ」というだけではなく、「哲学はすべて思弁である」と言うようになった。すると、ロマン主義の問題意識であった、「人文科学の方法論の確立」はもとの木阿弥になってしまう。つまり、「もし分析的・還元論的に世界を調べていけば、世界は均一化してしまって、個性はなくなってしまう。それでは、人文科学のような個性や民族性などを調べる学問は生き残ることができない。」という問題は答えられないままになる。

 

だから、人文科学の方法論を確立することと、事実に即した科学を確立しなければならないこと、という2つの課題が生まれた。

 

そこで、新カント学派は、「カントに帰れ」と述べた。カントは、形而上学と自然科学の境界線をしっかりと引いて、近代科学の基礎となる認識論を確立しようと試みた。だから、もう一度、カントにならって、自然科学、人文科学の認識論を確立しなければならない、と考えた。

 

新カント学派は、あらゆる科学を共通に支配する、人間の内に先験的に存在する認識対象把握の形式(能力)と、経験科学が提供する知識の「内容」を明確に区別した。そして、後者は、実験観察という経験主義的調査に基づかねばならないが、前者、すなわち、知識の先験的形式に対する批判的・認識論的反省は、哲学の役目であると述べた。

 

自然科学の認識論的基礎は、実験観察による帰納法的認識論にあるが、社会科学の認識論的基礎は、人間の頭の中に先験的に備わっている意識の形式である。そして、この意識の形式は、「神によって人間の脳みそがそのように作られたから」と述べてはならない。

なぜならば、ヒューマニズムは、神を一切持ち出さないからである。

カントと同じように、新カント学派の大前提も、「初めに人間の脳みそありき。」であった。

人間の脳みそは、人間を全体として把握し、個性とか民族性とかを把握する思考形式を先天的に備えているのだ。だから、人間は、<神抜きで>人文科学を行うことができる。

 

このようにして、新カント学派は、ロマン主義の問題意識である「人文科学の認識論的確立」を解決しようとした。

 

 

 

 



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