進化論でなければ、では?
アミノ酸100個からなるたんぱく質を作る確率が10の130乗分の1であると言うと(参照『必要なたんぱく質を偶然に獲得する確率』)、「特定のアミノ酸同士が結びつきやすいのだから、これよりも確率は高い」という人がいる。
しかしだ。
複雑な生体内の反応が偶然に成立したことを示すには、こんな100個のアミノ酸からなる小さなたんぱく質一つが偶然にできる確率が高いことを示したくらいで何にもならない。(しかも、実際にどのアミノ酸同士が結合力がどれだけ高いかも示さなければ説得力はまるでない)
とにかく、分子レベルの話になればなるほど、「偶然に生物の諸器官、諸機能ができました」なんていう議論は、口が裂けても言えなくなる。
ある生物内で起こる化学反応の式を一つ一つ書いていくと、新聞紙一面になると聞いたことがある。これだけの複雑な反応が偶然に成立したなどありえないことくらい、少し頭がよければ分かるはずである。
光合成の複雑な複雑な化学変化を促進するすべての酵素がすべて偶然に生まれた?冗談でしょ。その1つを構成するたんぱく質ですら、へたすると10の130乗分の1の確率でしかできないんですよ。
そもそも、こういった複雑な化学反応が成立した過程をも進化論は説明できるのだろうか?
ある植物(未満)が、途中まで光合成の化学反応の機能を遺伝的に獲得した(DNAが突然変異によって整った)としても(例えば、光合成完成まで30パーセントの地点まで到達とか…)、光合成が完成していない間は、生物にとって有利な形質を得たということにはならないのだから、生存競争に勝てる保証はどこにもないわけだ。生存競争に勝てる保証がどこにもなく、他の生物と比べても有利な形質(光合成)を持たないにもかかわらず、進化だけは次々と進んで、徐々に光合成の化学反応が完成されていった? 冗談でしょう。
次から次へと都合よく、DNAが突然変異して、必要な酵素やたんぱく質などが奇跡的に追加されていき、壮大な化学反応は整えられていった?目標も、計画書も何もないのに?
このような化学反応の成立過程を、突然変異と淘汰の考え方でどうやって説明するのだろうか。
進化論はまだ100年しか経っていない「新興思想」である。
そろそろ、目を覚ますべきときであることだけは確かであろう。
さて、進化論が人々から捨て去られるであろう近未来の社会において、では、その後にどのような思想が受け入れられるべきかという問題が浮上してくると思われる。
進化論でなければ、創造論しかない。
なぜならば、「偶然や非人格によるのではなければ人格による計画」しか選択肢はないからである。
まあ、とにかく、創造を信じることなしに、倫理の問題も解決がつかなくなるわけだから、一日も早く社会がマインドコントロールの状態から解放されることを願うものだ。