ニューエイジとキリスト教

 

ニューエイジの考えがはびこっています。

http://www.pluto.dti.ne.jp/~march/xf9711.htm によると、

「ニューエイジの誕生は、60年代のヒッピー・ムーブメント華やかなりし頃、世界中を旅した若者たちが主にインドやチベットなど東洋の宗教思想やライフスタイルを故国へと持ち帰ったことが契機になったといわれ」、「西洋型の分析的・合理的な物の考え方が次第に閉塞感を生み出すようになってきた戦後の社会情勢の中で、新しい生き方や物の見方を求めていた」「若者たち」が「東洋思想の深みや自然と調和した簡素なライフスタイル」を求める中で生まれました。「東洋思想の全体性、普遍性を重んじる考え方は近代以降の<正統科学>のあり方にも影響を与え、「ニューサイエンス」という新しいフィールドを開拓する原動力にもなり」、「やがて自然医学(気功や漢方、民間療法etc.)や神秘主義、ESPやチャネリングなどの超常現象をも取り込んで、ニューエイジは大きな流れを形成するに至」ったと言います。

さて、ニューエイジの問題提起は、別に新しいものではなく、神を捨てたヒューマニズムが最初から持っていた問題の焼き直しでしかありません。

ヒューマニズムは、「神抜きの理想郷」を目指します。ヒューマニズムには大きく分けて二つの理想があります。それは、(1)ヒューマニズムの人格理想と、(2)ヒューマニズムの科学理想です(Hermann Dooyewerd, Christian Philosophy and Meaning of History, The Edwin Mcllen Press)。

(1)は、人間の良心の自由、善悪選択の自由を目指します。神抜きで、神の基準に縛られずに、自由に生活することがヒューマニズムにとっての「自由の理想」なのです。

(2)は、宇宙は、数学的、自然科学的な方法によって、単純な要素を理論的に積み上げて成り立つものとして捉えられるべきであって、神の創造物とは捉えるべきではないと考えます。人間も世界も原子分子の集まりであり、世界は、数学的、機械論的に探求されるべきであると考えます。今日の生物世界があるのも、進化によって偶然に成ったのであり、神とは無関係である、と考えます。

(1)と(2)は、常に緊張関係にあります。(1)が行きすぎると、思弁的・独断的・迷信的になります。(2)が行きすぎると、宿命論的、無個性的になり、人間の自由を阻害します(すべてが科学的法則にのっとって起こるならば、人間の自由はどこにもないということになります)。

時代によって、(1)が強くなったり、(2)が強くなったりします。現代は、進化論の登場によって、(2)が強くなり、「(2)が(1)を圧倒した時代」に対する反省の時代ということになります。

ニューエイジは、このように、科学万能、合理性至上主義、反神秘主義に対する反動として生まれました。

経験科学は、ものごとの全体を捉えるというよりも、ものごとを各要素に分解して、その要素を研究します。このような還元論的な手法は、ものごとの各構成要素を知ることはできても、その全体像やその全体的な意味を知ることはできません。

例えば、人間について調べる場合、人体を細かい要素に還元し、それらを細かく分析しても、つきつめて言えば、「人間は分子原子の寄り集まり」ということにしかなりません。これでは、人間はみな同じ。A君もB君も同じではないか、ということになってしまい、このような還元論的科学によって得られた知識は、対象から個性を奪います。

「分析ではなく総合、部分ではなく全体」と言うスローガンは、19世紀中ごろのロマン主義の時代にも現われましたが、ロマン主義は思弁的・空想的であり、「非実証的」である、との批判を実証主義側(筆頭としてダーウィン進化論)から受け、主流派の座を実証主義に譲りました。

現在のニューエイジは、この実証主義が優勢だった時代が終わりに近づき、人々がそれまでの世界観に対して限界を感じたために起こったムーブメントなのです。「何でも科学で割りきれるわけではない。人間には、科学の法則に縛られない自由がある。」と人々は言い出しました。

実証主義側の攻撃に対して、ニューエイジ以外に応答はなかったのかというとそうではありません。まず、それよりも100年も前に実存主義が応答しました。実存主義は、実証的科学が正しいことを認めた上で人間の可能性を模索したので、ロマン主義などの思弁的・空想的な立場には戻りませんでした。ニーチェは「兄弟たち、大地に足をつけていようではないか。」と言いました。つまり、実存主義は、安易に非実証的観念論(「形而上学的世界について科学的証拠なんてどうでもいい。知識獲得において実証性を重んじる必要はないのだ。世界はこうなっている、と勝手に考えて何が悪いのか。」)に陥ろうとせず、実証科学の価値を認めた上で、人間の自由を模索しました。

しかし、実証主義を認めながら、観念論も回避したために、結局、実存主義には、相対主義以外に解決はありませんでした。すなわち、「たしかにダーウィン進化論は否定できない。宗教や思想に逃げ込んで、実証的な科学を否定することはできない。世界は偶然に進化したことが正しいわけだから、自然法とか宇宙の根本法とか、絶対的な基準というものは存在しないということになる。すべては偶然の織り成す業だから。ということは、もはや普遍を見付けるのではなく、すべては相対だと考えるべきなのではないか。」と考えたわけです。

アムステルダム自由大学教授故へルマン・ドーイウェールトはこれをまとめて次のように言いました。「さて、現代の実存主義は、この実証主義を乗り越えようとした。哲学をもう一度実際的な世界観にまで拡大しようとした。しかし、それは、すでに、永遠の形而上学的思想世界に対する信仰(これは、ヒューマニズムの人格理想に属する)を失ってしまっていたので、時を超えて存在する普遍的・絶対的な基準を再び獲得しようとはしなかった。」(前掲書92ページ)

 

このような考え方は、現代人を支配しています。

つまり、現代人は、実存主義者と同じように、科学を尊重します。しかし、同時に科学だけではもの足りないと考えています。だから、オカルトや心霊写真が流行るわけです。実存主義は、普遍的な法則などというものを否定し、すべては相対であると考えます。そのように、現代人も、そのような法則を探求することを諦めています。だから、実存主義的な今日のクリスチャンも、「律法ではない。個人の救いなのです。」と、個人主義に走るのです。今日のクリスチャンは、実存主義以前のクリスチャンとは違います。かつて、キリスト教の中心は「法」でした(ルター派は、ルターが唯名論者から教育を受けたので、法よりも救いを強調しますが、カルヴァンは、法学者であったこともあって、法を強調しました)。しかし、今のクリスチャンは、律法を嫌い、何かの規則を毛嫌いします。そして、個人の救いという実存を強調するのです。だから、今日のキリスト教は、「伝道中心主義」であり、「いかに人を救いに導くべきか」に注意を集中して、「『わたしが命じたすべてのこと(つまり、神の法)を守るように教えなさい』という諸国民の弟子化命令」を軽視するのです。

さて、このような実存主義の影響もあって、世界の主流の考えは、「普遍」を嫌い、「個物」を強調する傾向があります。

ニューエイジは、このような実存主義の子孫であり、両者とも「実証科学を尊重はするが、科学で説明のできる現象を超えた何かを求める」という点で共通しています。

心霊とかUFOとかが流行するのは、人々が、数式や法則では割りきれないものがこの世界に存在することに気づいたからでしょう。

わたし自身がそうでした。理性とか論理とかいうものよりも、感性、直感を重視する傾向にありました。オカルトの本や、UFOの本をよく読みました。

アメリカでは、1963年のケネディ暗殺が、このような世界観の転換に大きな契機を与えたといわれています(Gary North, Unholy Spirit, ICE, TX)。それまでの、合理主義の体現者である大統領が、人々の目の前で暗殺されたということは、アメリカ市民に対して大きな衝撃でした。また、ベトナム戦争も大きな要因だったでしょう。

ヒューマニズムの世界において、(2)の領域である合理性が信頼を失えば、(1)に行かざるを得ません。

さて、日本という国について言えば、日本は、そもそも、(1)と(2)の対立という枠組みを厳密にしていませんでした。このような枠組みを受け入れたのは明治になってからに過ぎません。むしろ、仏教や神道などは、そもそも、対立的な思考法を拒否して、あいまいの中に逃げ込む発想があるので、日本人の思考法は、もともとニューエイジのようなものであったといえるでしょう。

だから、西洋のニューエイジャーが、「分析」ではなく「総合」にこだわるときに、彼らはすでにそのような考え方をしていた東洋思想を再評価するようになったのです。主体と客体の厳密な区別をせず、「我」であると同時に「彼」でもある、というような矛盾を平気で受け入れるのが東洋思想だったのですから。

しかし、周知のように、科学や文明の進歩発展は、実証的な科学に依存していたのであり、自己と他者を区別しないあいまいな思考法からは近代文明は起こり得ないのです。

それゆえ、ニューエイジに逃げ込むことは、文明の自殺であり、発展や進歩の拒否です。

だから、クリスチャンは、このような「曖昧」な思考法を排除しなければならないのです。

クリスチャンは、ヒューマニズムとは違って、(1)と(2)の対立はありません。神が世界を創造され、被造世界は、すべて合理的にできていると知っています。それは実証的な科学によって探求できる対象です。ここに科学の可能性があります。

また、同時に、その世界は、自律的に動いているのではなく、人格神の支配の下にあるとしますので、「世界は科学的法則によってがんじがらめに縛られている」とは考えません。つまり、奇跡の存在を前提にものごとを考えることができるので、自由なのです。

例えば、「○○さんが、病気になった。これは不治の病である。もうだめだ。」と言うのは、(2)によって縛られている考え方です。クリスチャンは、「たしかにこの病気は不治の病とされている。しかし、神が働かれれば、必ず癒される。奇跡もあり得る。」と考えます。

よくクリスチャンの中でも「世界を見てください。悪がこんなにはびこっている。このような世界がキリストの王国だなんてどうして信じられますか?」と言う人がいますが、これは(2)に支配された人の意見です。

本当のクリスチャンは、「世界がどんなに悪に支配されていても、この世界はキリストのものだ。だから、時間とともに、必ず、神が支配を拡大し、世界を回復してくださるに違いない。」といえます。本当のクリスチャンは、目に見えるものに頼らず、信仰に頼ることができるのです。だから、たとえ自分にお金がなく、力がなくても、神の約束によって、自分たちが勝利する、キリスト教は、全世界の国民を弟子とすることができるのだ、と信じることができます。

ヒューマニズムに留まっていたり、ヒューマニズムから影響を受けると、妙な「現実主義」に陥ります。しかし、クリスチャンは、「非合理」に逃げ込むことなく、勝利を確信できるのです。

ヒューマニズムに留まっていたり、ヒューマニズムから影響を受けると、妙な「個人主義」や「相対主義」に陥ります。しかし、クリスチャンは、「非合理」に逃げ込むことなく、(聖書によって)万物を支配する普遍法を持つことができるので、周りの価値観に動かされることなく、「絶対主義」に留まることができるのです。

今日の教会は、実存主義の影響を受けたために、非信仰的「現実主義」と「個人主義」と「相対主義」に陥りました。すなわち、今日のキリスト教は、ニューエイジと同類なのです。

だから、一日も早く、教会は、聖書的キリスト教に帰る必要があります。

 

 

01/08/21

 

 

 

 



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