市民革命を成功させるカギ

 

 長野県知事選挙で田中康夫が当選した。

 そして、これは官主導の政治を変える市民革命だとの評価がある。

 たしかに、日本には市民革命が必要である。

 

 「長いものに巻かれろ」式の、官依存体質から抜け出せないために、汚職や利権がはびこり、日本の民主主義は崩壊寸前である。

 市民革命を経た欧米諸国の国民には「政治を自らの手で変えることができる」という自信がある。

 そのような国民は、政治をチェックし、腐敗や汚染を防ぐためにすみやかに行動にでる準備ができている。

 しかし、日本においては、60年70年代の学生運動が挫折したため、「やっても無駄だ」という諦めがある。今日の学生のノンポリ化の一因はここにある。

 民主主義を維持するためには、市民革命の「成功体験」が必要であり、外圧によってではなく、内圧によって政治を変える風土が養成されなければ、自分の政治を腐敗堕落から守り、民主主義を根付かせることはできない。

 

 さて、欧米の市民革命(フランス・ロシアを除く)の土台には、カルヴァン主義の「法治主義」があった。「世界は神によって支配されており、万人はその法を守らねばならない。もしその法を守ることをしないならば、王ですら処罰の対象となる。」

 超法規的地位を主張した王に対して、イギリス・ピューリタンは、王すらも法に服従すべきであるとし、議会の優位を主張した。

 

 欧米の市民革命が成功した大きな原因は、「神の法への服従」に貢献したことにあった。それらの革命の基本には聖書律法遵守の精神があり、彼らの主張した自由は「神の法による自由」であって、「あらゆる規範からの無政府主義的自由」ではなかった。

 

 それに対して、フランス革命やロシア革命、他の共産革命が血で血を洗う権力抗争に終始し、ついには独裁者と専制と隷属を生み出さざるをえなかったのは、これらの革命が「無政府主義的自由」を求め、「神の法からの解放」を主張したからである。

 

 聖書は、「自由は規範を守るものにのみ与えられる」と述べている。個人の小さな責任を果たすことができる者だけが、家庭を治める資格を与えられ、家庭を治めることができる者だけが、教会を治める資格を与えられ、教会を治めることができる者だけが、国家を治める資格を与えられる。

 

 このように、自由や責任は、小さな義務をきちんと果たすことができる者にしか与えられないのであるから、真に建設的な革命を行える者は、自分を治め、家庭を治めることができる者でなければならない。

 

 しかし、反キリスト教的な革命者は、聖書に反抗し、このようなボトムアップ式の責任観を無視し、「自分の個人的な生活と政治とは無関係だ」と述べて、政治を倫理から切り離すため、国家を混沌に招かざるを得ない。

 

 彼の個人的な生活における倫理は、必ず政治的な倫理に反映する。

 個人の性生活において混沌の中にいる者が、政治の舵取りをまともにできるわけがない。

 

 日本の市民革命が成功するか否かは、「神の法遵守に貢献するか否か」にかかっている。

 

 イギリス市民革命が、市民を政治的な束縛から解放し、彼らに富を蓄積させ、産業革命への道備えをすることによって、イギリスを世界のリーダーにまで押し上げることに成功したのに対し、フランスは革命とその後の混乱の中で大きくイギリスに水を開けられてしまった。アメリカは、神の法を基礎とする普通法によって自由への道を歩み、あらゆる面において長足の発展を遂げたのに対し、ロシアは神の法を否定し、個人の倫理を捨て去ったために、国内が混沌化し、ついにはすべての面において破綻してしまった。

 

個人の性生活をHP上に公開し、フリーセックスを主張するような神の敵が市民革命を成功に導くことはけっしてない。

 

 

 

 



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