新プラトン主義
ギリシヤ思想の弁証法的な性質は、必然的に、新プラトン主義を生み出した。弁証法的哲学は、二つの対立する概念を和解させ、その内部に異質な本質や世界を共存させようとする思想体系である。それゆえ、弁証法思想において、二つの異質な構成要素の間には緊張があり、最終的には、それらの要素のいずれかに軍配を上げることによってその緊張関係を解消する。
ギリシヤ思想には、二つの実体substancesが存在する。一方は、理念、心、精神、形相の世界であり、他方は、物質、(普遍に対する)個物、(「一」に対する)「多」の世界である。各実体は独立しているので、心の世界と物質の世界の間には、いかなる有効かつ必然的なつながりも存在しなかった。それゆえ、このような出発点から論理を発展させた哲学は、この二つの世界を、結果的に、分裂させる傾向にあった。
新プラトン主義は、アレクサンドリアで発達し、古代世界のあらゆる地域に普及した。新プラトン主義は、精神や理念を強調した。精神や理念は真の実体であり、物質よりも重要な本質であった。それゆえ、新プラトン主義においてすぐれた人物とは、物質世界がいかに無意味で、人を欺くものであるかを見極め、心や精神の事柄に集中する人であった。
新プラトン主義の発達において非常に重要な役割を果たしたのは、インド思想であった。ティアナのアポロニウスは、バラモンの思想家に教えを請うためにインドに出向き、プロティヌスは、「東洋の」思想家から「知恵を受ける」ためにローマ軍を従えてペルシャに赴いた。しかし、新プラトン主義の真の源泉は、インドでも、プロティヌスでもなく、プラトンとギリシヤ思想にあった。新プラトン主義は、プラトンとギリシヤ思想から出た自然的かつ論理的な結果であった。インドが果たした役割とは、似たような理念の世界を提供することによって、次のような信念を確信させたことであった。すなわち、「新プラトン主義が示す普遍概念は、人間の心に生まれながらに備わっているものであって、世界のあらゆる場所に住む人間はすべて、自分の心の深奥を探るときに、同じ考えを抱くに違いない」という信念である。
哲学の正式な学派としての新プラトン主義は、何世紀にも渡って、ギリシャ・ローマ世界の学問の世界を支配した。529年のユスティノスの勅令により、アテネに残った最後の学院が閉鎖されるまで、800年もの間、プラトン思想がそこにおいて伝授された。正式な学派としての新プラトン主義は、ますます反キリスト的になり、世界にとって無用の長物と化していった。それゆえ、新プラトン主義の真の歴史を知るには、他の部分に目を向けなければならない。
新プラトン主義が人々に提供したものは、次のような信念であった。すなわち、「新プラトン主義は、アジアやアフリカ、ヨーロッパの思想家たちが共通して抱いていた真理を代表している」という信念であり、また、「人間思想の基礎としてあらゆる人々が利用できる共通の哲学を提供している」という信仰である。アレクサンドリアのクレメンスは、「新プラトン主義は、万人が利用できる中立の土台である」と述べた。つまり、永遠のものや霊的な事柄だけが、真に現実的であるとされ、物質的なものや歴史に属する事柄が軽視された。「修道僧たちは、使徒たちの人生が次のような思想によって貫かれていたことを証明しようとした。すなわち、霊的な事柄を尊ぶために、物質的な事柄を否定したり、霊は肉体のパートナーではなく、むしろ、そのマスターであると考えるような思想に支配されていたことを示そうとした。」1
異教の神秘主義者たちは、
「罪から解放されるよりも肉体から解放されることのほうを求め、そのために祈りを捧げた。彼らにとって肉体は牢獄であり、墓であった。そこから離れることこそ、彼らの魂にとって唯一の希望であった。それゆえ、救いとは、現世における苦しみから逃れることであり、来世において肉体の恥や拘束から解放されることにあった。」2
肉体の復活という聖書の教えがあったおかげで、クリスチャンはそこまで極端な肉体軽視論に陥ることはなかったが、それでもやはり、新プラトン主義の影響は彼らの上に強力に臨んだ。信仰という名の下に、クリスチャンは、新プラトン主義の前提を徹底して現実化した。
新プラトン主義の一般概念は、イスラムにも浸透した。サフィスはイスラムへの新プラトン主義の影響を明らかにした。3
新プラトン主義には様々な流れが存在するが、「現実世界は統一体であり、この統一体を心とか霊と呼ぶことができる」と主張する点においては実質的に一致している。自然の世界は、移ろい行くものであるがゆえに、幻想であるか、そうでなければ、劣った世界である。それに対し、心とか霊は、自らを、物質や移ろい行くものに妨害されることがない、純粋な存在であると理解しようとする。ルーイスは、「プロティノスとヘーゲルは互いに友好関係にある」と述べている。4
「プロティノスによれば、世界のあらゆる過程は、二つの概念に要約することができるという。すなわち、万物は神から出ているということと、万物は神に帰るということである。」5 そのような哲学は、「魂とは本来、善なのであるが、肉体と言う牢獄に閉じこめられているのである」と考える。そのため、解放とか救済は、物質的な事柄を軽蔑し、霊的な事柄に集中することにある。しかし、聖書は、肉体を悪と見ないし、「罪とは魂が肉体や物質界の中にあるがゆえに起きるものである」とも教えていない。
回心とは、魂を翻して、より高次かつ高貴な欲望の対象を求めるようになることではなく、心を完全に変えることである。心を完全に変えることによって、自己中心的な意思は、神中心の意思に変わり、神の御心に従うようになる。6
マルクスの用語を借りれば、新プラトン主義の目標とは、「必要の王国、物質の領域及び物質の持つ力」から、「自由の王国、精神や霊の領域」に移行することにある。物質世界の呪縛は、絶ち切られなければならない、そして、精神はそこから完全に解放され、純粋な自由の中に確立されねばならないという。
新プラトン主義の一部において、オリゲノスから今日に至るまで、精神や霊は、自らを愛と称してきた。「愛は、万人のうちに見られる根本的な力である。」 愛は、霊の世界と物質の世界のいずれかを選択しなければならない。ダンテにとって、神とは、「太陽や星々を動か」すと同時に、自らの「欲望や意思を」自分自身にまで高揚させる「愛」なのだ。8 このダンテにおける上昇運動は、その本質において新プラトン主義的である。「本来、魂は上昇運動するものであり、それは自然の動きなのだ。もし魂が上昇していないのであれば、それは、魂にとって不自然であり、異質なことなのだ。それゆえ、上昇しない魂は、破滅に至らざるを得ない」というのだ。
プロティノスもポルフュロスも、キリスト教を攻撃した。それは、キリスト教が受肉という下向きの運動を主張するからである。キリスト教が「神は肉体となった。それは、人間をこの地上において正しい地位に復帰させるためであり、人間を神の権力代行者として、神の権威の下で地に主権を確立させ、地を従えさせるためである」と教えることに我慢がならなかった。地上のことにかかわりを持つ下降動因downward motiveなど彼らの眼中にはなかった。むしろ、彼らが主張していたのは、地上のことを捨てて天高く舞い上がることである。後期の新プラトン主義は、地上への関与を「人間を上昇させるための下降」と呼んだ。それは、地上への関与を一部分容認するためであった。しかし、何人かの神学者たちはこの異端の教説は、「神は人間になった。それは、人間が神になるためである」と言っているようなものであると、述べた。これは実にうまい表現である。この新プラトン主義の[上昇]動因に基づいて、この世界に存在するあらゆるものが再解釈され、新たな意義づけをされた。偽デュオニソスは、
「人間の世界において神との交わりはあり得ない。それは神の世界においてはじめて可能なのである」と語った。このことは、デュオニソスの祈祷観において最もよく現われている。彼は次のように述べた。「祈りが、あたかも神の恵みを下してもらう手段であるかのように考えられているが、それは間違いなのだ。神はあくまでも超越の高みに留まっておられる。祈りによって、我々は自らを神のところまで引き上げて、神と一体化することができるのである」と。9
つまり、祈りとは、この物質世界における我々の活動に対して、神からの導きと祝福を得る手段なのではなく、物質世界から逃げ出して霊的な世界に逃げ込むための方途だという。
ルネッサンスの時代、マルシリオ・フィチーノによって、人間の魂は完全に神格化された。人間のうちにある神性the divineは、[もともとそこから出てきた場所である]神the Divineのもとに帰ったのだ。人間が神を知ることができるのは、啓示によるのではなく、自分の内側を見ることによってである。我々が神を知っているのは、それは、我々の性質の内には、神的な部分――神の断片――が存在するからである。フィチーノは意識的にキリスト教に反対したわけではない。彼は、自分の理解にしたがって、あらゆる宗教に含まれる共通の原理を強調したに過ぎなかった。大宇宙に存在するあらゆるものは、自分自身の内に存在する。人間とは、そのような小宇宙なのだ。それゆえ、人間は世界の中心であり、知識への鍵である、と彼は考えた。「もしこのすべてのことを見ながら人間の魂が『神のライバル』であることを認めようとしないならば、彼は疑いもなく正気を失っているのである、とフィチーノは言う」。10 フィチーノの立場についてニーグレンは次のように述べている。
基本的に人間は神的存在である。それゆえに、人間は、自分が持っていない完全性とか力を神が所有しておられるという事実に目を向けることができない。人間は鼻息を荒げて神と張り合おうとする。
「もしこの世に神々が存在するとするならば、私も神になりたいものだ。このような願いを押し止めておくことは私には到底できない」(『ツァラトゥストラはかく語りき』2・2)と述べたのはニーチェが初めてではないのだ。ニーチェの主張が新しかったのは、このような仮定から「それゆえ、神はいない」という否定的な結論を出したことにある。フィチーノとニーチェやフォイエルバッハとの間にはそれほど大きな違いはない。ニーチェは神を超人と置換え、フォイエルバッハは、神を人間の願望の反映に過ぎないとした。11
このように、新プラトン主義の本質にあるヒューマニズムは、フィチーノやニーチェやフォイエルバッハを生み出した。これほど公然とではないが、新プラトン主義のヒューマニズムは、高潔かつ霊的で、最も敬虔なクリスチャン信仰に姿を変えて公道を練り歩いている。
新プラトン主義は、中世の教会だけではなく、初代教会の思想や生活にも影響を与えていたということは、周知の事実である。しかし、ジョナサン・エドワーズやピューリタンなど、宗教改革の後継者たちにも新プラトン主義は少なからぬ影響を与えたということは、まだ世に認知されていない。偉大なオランダ系改革主義思想家のアブラハム・カイパーにも、程度の差こそあれ、新プラトン主義の思想の影響が見られる。彼の弟子たちの何人かは、神の御言葉の権威によるのではなく、プラトン的な形式や思想に基づいて、まったく新しい世界を作り上げてきた。たとえその名前は変わっていても、新プラトン主義は、今日の世界にも多大な影響を与えている。このように、宗教改革の後継者の中にも新プラトン主義者は存在する。彼らが主張する概念や形式の新世界とは、「一般恩恵」である。一般恩恵とは、自然法、概念、形式、人間の普遍的側面、からなる新世界である。我らが「改革主義的Reformed」プラトンたちにとって、一般恩恵は、聖書の諸規則から解放され、自由を獲得できる逃れ場なのだ。
新プラトン主義の原理を徹底させるならば、救いとは、神のお取扱いや奇跡などではなく、純粋に人間的な事柄である。人間の精神、理性、理念、形式や計画、企図は、人間を己の肉体から解放し、物質的必要の世界から救出する。これによって、人間は、物質に縛り付けられている状態、すなわち、必要の王国から、心や霊の世界、すなわち、自由の王国にとらえ移される。古代ギリシヤの弁証法の現代版は、「自然と自由」である。自然の世界は、物質的必要、束縛と奴隷の世界であり、拝金主義、物質崇拝者のブルジョアや中産階級の人々の世界である。また、自然の世界は、セックスの世界、女性の世界でもある。女性は、フィジカルで物質主義的な生き物であると考えられているからである。 自由の世界は、心や精神(ヘーゲルの「ガイスト」)の世界である。それは、理念、形式、理性、計画の世界である。人間の唯一の希望とは、理念や計画を物質世界に押し付けることにあり、物質世界を自由と精神の下僕として従えることである。このため、あらゆる理想主義者と同様に、20世紀のプラトン主義者にとっても計画とは、宗教的な義務なのだ。つまり、彼らにとって計画は救済の道なのだ。トマス・モア卿の福音とは、人間の精神がその理念をあらゆる物質世界に押し付けることである。このような世界こそ彼にとって「ユートピア」なのだ。モアにおいて、配偶者を選ぶには、まず彼女らを裸にして精査しなければならないという。彼女らの精神面などどうでもよいことなのだ。物質とか特殊性particularityは重要なことではなく、それは精神の世界とはほとんど関係がないことなのだ。それゆえ、妻は、精神と肉体の総体として選ばれるのではなく、ただ、家畜のように裸にして検査すればよい程度のものだと考えた。 アリストテレスにとって、女性とは、できそこないの男性であり、人間の中で劣等な(つまり、より物質的な)形態であった。プラトンは、女性を理性的な生き物と考えることができるかという問いに対して明確は答えを出せなかった。 アリストテレスは、男性も奴隷も女性も子どももみな魂を持っている、しかし、「彼らすべてのうちに魂の諸部分があるとはいえ、それには程度の差があるのだ」と述べた。12 女性は、男性よりも魂の占める部分が少なく、それゆえ、より物質的な存在なのだ。結果として、新プラトン主義者たちは、伝統的に、官能的・物質的原理の体現者とされた女性を敵視する傾向にあった。 モアはこの原理が自分の娘に当てはまると述べたが、その原理に従えば、女性は贔屓目に見ても、本質において、精神よりも肉体の生き物であり、それなるがゆえに、家畜のように、結婚前に肉体を調べなければならないということになる。フェミニスト運動は、深刻な誤謬を含んでいるが、ある意味において仕方がない面もある。というのも、新プラトン主義の運動は、たえず女性を軽蔑の対象としてきたからである。聖書において、女性は、男性と同じくらい知的で、有能な存在と見なされている。問題は、権威に関するものであって、人間性とか威厳に差があるわけではない。しかし、新プラトン主義において、女性は時に、男性とはまったく異なる種類の生き物とされたり、または、男性が劣化した形態と見なされている。ヘレニズム思想がイスラムに与えた影響は顕著であり、女性はそのような影響の犠牲者である。イスラムは、男性が自分たちの満足のために作り上げた性的秩序の好例である。この宗教では、たえず、「男性は理性的・精神的であり、女性はその本性において粗野で、物質主義的で、官能的である」と教えられ、女性は男性より劣っていると考えられている。聖書が示しているのは、女性が劣っているということではなく、女性は男性に従属するように造られているという事実なのだ。劣っているということと、従属する立場にあるということはまったく異なる問題である。
新プラトン主義の反対思想は、自然を賛美し、それゆえ、女性を賛美する。ヨーロッパにおいて、中世及びルネッサンスの吟遊詩人は、夫婦間の愛情を軽蔑した。というのも、夫婦愛は、恩寵の世界に属するからである。彼らは、恩寵の世界を、プラトンにおける精神世界と同一視した。他方、姦淫は自然の世界に属していた。 このため、妻は劣った存在と見なされ、情婦は愛の女王としてもてはやされた。姦淫の愛についてヴァレンシーが述べたように、「宗教や社会の観点から見てそれがどれほど不正な行為であろうとも、自然はそれを許してくれた。現実的には、姦淫は結婚の絆よりも堅固な土台の上に立っていたのである」。13
「自然の許可」は、キーワードである。他の全ての弁証論と同様に、新プラトン主義にも、二つの世界が存在する。それらは互いに対して異質であり、物質と精神、自然と恩寵、自然と自由の二つの世界が、どれほど一つに融合しているように見えたとしても、それらは、互いに相反している。一方が好かれれば、他方は苦しむ。もし「自然の許可」、すなわち、不正な愛が賞賛されれば、合法的な結婚は軽蔑されねばならない。なぜならば、愛と結婚、自然と恩寵が仲良く共存することなど原理的に不自然だからである。
しかし、聖書において、そのような弁証法的な緊張関係は存在しない。戦いは、物質と精神の間にあるのでも、自然と恩寵の間にあるのでも、また、自然と自由との間にあるのでもない。真の戦いは、罪人と神との間にある。人間が罪を犯すときに、彼は、神に対して宣戦布告したのであるから、結果として、彼は緊張状態に入り、戦場の中に足を踏み入れた。人間が緊張と戦争の中にいるのは、罪が原因なのであって、二元論的世界の対立があるからではない。問題は、倫理的であって、存在論的ではない。新プラトン主義は、人間が直面する問題を提示するだけではない。人間の問題は、存在論的な問題であると宣言する。そして、このように宣言することによって、人間が救われるには、その基本的な側面を切り捨て、去勢する必要があると主張している。
1. Robert R. Williams, A guide to the Teachings of the Early Church Fathers (Grand Rapids: Eerdmans, 1960), p.187.
2. G. L. Prestige, Fathers and Heretics (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1940), p. 76.
3. Margaret Smith, Studies in Early Mysticism in the Near and Middle East (London: The Sheldon Press, 1931), p. 245 ff.
4. 参照・ E. Crewdson Thomas, History of the schoolmen (London: Williams and Norgate, 1946), pp. 106ff. W. R. Inge, "Neo-Platonism," in James Hastings, ed., Encyclopaedia of Religion and Ethics (Edinburgh: T. & T. Clark, 1917, 1930), IX, 307-319.
5. Anders Nygren, Agape and Eros (London: S.P.C.K., 1932, 1937), pt. I, p. 146.
6. Ibid., p. 175.
7. Ibid., pt. II, vol. I. p. 175.
8. Dante, Paradiso, XXXIII.
9. Nygren, op. cit. (1939), pt. II, vol. II, p. 370.
10. Ibid., p. 457. 11. Ibid., p. 458, 458 n.
12.Aristotle, Politics, in the Max Lerner edition (Modern Library), I, 13.
13. Maurice Valency, In Praise of Love: An Introduction to the Love-Poetry of the Renaissance (New York: Macmillan, 1958), p. 77.
R・J・ラッシュドゥーニー『人間性からの逃避――新プラトン主義のキリスト教への影響』(ソバーン・プレス,1978,p.6-12)の翻訳。