現代の福音主義教会へのインベーダーの侵入 by ブライアン・M・アブシャイア

 

これまで二十数年間、筆者はアメリカの福音主義教会の悲劇と不毛さと狂気について講義や書物の中で述べてきた。私の博士論文は、表面上はアメリカ特有の文化的価値観に対するピューリタン神学の社会的影響について述べたものであるが、実際の目的は、別のところにあった。それは、日曜の朝ごとに私が個人的に見聞きしてきた現象――すなわち、現代のアメリカの福音主義の失敗――について学問的に検証することにあった。

私が犯した大きな見込み違い

この研究を通して、また、様々な教会や組織において牧会したあらゆる経験を通して、私は、深刻な、しかし、当然とも言える見込み違いを犯した。私は、本当の問題は無知にあると考えていた。すなわち、私の兄弟姉妹たちは、キリスト教について不充分で歪んだ理解をしている、と考えていた。もし彼らが矛盾のない首尾一貫した真に聖書的な世界観を教えられれば、彼らはこれまでずっと与えられてきた感傷的でふにゃけた教えと決別し、もっと聖書的な信仰を受け入れるようになるだろう、と。個人的生活は変えられ、家庭生活は改善され、教会は刷新され、そして、恐らく、神は我々にアメリカを変えるための真の改革を行わせてくださるに違いない、と。

そのため、過去15年間、私は、多くの人々を不機嫌にさせる専門用語を避け、難しい学問的な概念を、博士号を持たない人々でも理解できるように噛み砕いて説明し、彼らがキリスト教史の栄枯盛衰の過程を理解し、我々の改革主義の先祖たちが達成した業績について幾らかでも理解できるように努めてきた。私は、「非常に多くの福音主義のクリスチャンたちが真のキリスト教信仰の力にひとたび目覚めるならば、彼らは敗北主義を捨て、ヒューマニズムと妥協することをやめて、キリスト教文明を回復するために戦いに参加してくれるだろう」と期待していた。

しかし、私は成功を収めると同じくらい、失敗も喫してきたように思われる。多くの人々が学問的な話題を愛し、私の講義に集い、純粋なキリスト教的世界観を喜んで聞いてくれたように見えた。しかし、それは、ただ何か新しい理論を受け入れるだけでは足りないということを理解しはじめるまでの話だったのだ。多くの「クリスチャン」は、「この新しい世界観を採用すると、次から次へとすべての領域を変える責任が生じる」ということを理解するや否や、私への評価を一変させた。私は、ヒーローからフーテンに落とされた。このことが、ただ私個人の問題であると皆さんが誤解しないためにも、どうか、あなたが好意を抱いている牧師や長老、著者や講演者と膝を交えて話し合ってみていただきたい。彼らも私と同じように、「聖書に従って生活しなければならないと説教するならば、人から憎まれるだけではなく、積極的に迫害されるようになる」と言うだろう。

真の問題

アメリカの教会の真の問題とは、単なる知識の欠如にあるのではない。もっと奥深い所に本当の原因があるのだ。それは、「人々は実際には生まれ変わってはいない」ということである。なぜ多くの「クリスチャン」が真理を憎み、恐れ、間違った神学を受け入れ、異端的道徳を実践し、主観的宗教体験に溺れているのだろう。それは、心の奥底において、彼らは生まれ変わっていないからなのだ。

ちょっと一緒に考えていただきたい。百年以上もの間、社会学者は「回心」のメカニズムについて研究してきた。いつの時代にも、回心はある。いつの時代においても、カルトや異教の集団は、人々を彼らの宗教に改宗させてきた。共産主義やナチス党に改宗した者もいれば、ダーウィン主義や自然主義のような様々なヒューマニズム哲学に改宗した者もいる。「宗教的」世界観から「世俗的」世界観に転向した者もいる。ある調査によれば、福音主義クリスチャンの子供たちの約70%以上は、25才前に回心を体験しているという。人々が人生を変えるような体験をし、新しい世界観を採用し、それに基づいて価値観や信念や行動を変化させるプロセスについて科学的に調査することは可能であろう。

もちろん、社会学者は、前提として、超自然を除外して考える。そのため、彼らは「自然的」回心を調査するのと同じ手法を用いて真の回心について研究する。それゆえ、これまで彼らの研究を参考にしようとするクリスチャンはほとんどいなかった。なぜならば、我々は、「神は邪悪な心を超自然的に再生してくださる」ということを前提として受け入れているからである。神だけが罪人を回心させることがおできになると信じているので、自然的なメカニズムについて調べても無駄だと考えている。

しかし、実際、(ある視点から見れば)クリスチャンの神学者や世俗の社会学者たちのどちらも正しいことをしている。というのも、彼らは2つの異なる事柄について研究しているからである。再生は、心の変化であるが、回心は、心理学的に言えば、単なるマインド[すなわち、知的心]の変化でしかないからである。

実を言えば、心の回心は、マインドの変化に帰結すべきなのだ。聖書の用語を用いれば、回心はマインドの「刷新」(エペソ4・23)を生み出さねばならない。心は人間存在の源泉であり、そこから、あらゆる側面が出てくる。もし人間の心が変化すれば、彼の信念や価値観や行動もそれに伴なって変わるはずである(参照・エペソ4・18)。それゆえ、我々は、「回心した生活」について語ることができるし、また、語るべきなのだ。しかし、世には、回心がそこかしこに在り過ぎる。

言いかえれば、人間のマインドが変わっても、必ずしも心が変わったわけではないということである。人間の信念や行動を変えるのに用いられてきた、有名で、時の試練を経た、効果的な多くの手段は、彼の内的性質を変えるにはまったく効力がない。中国人は、朝鮮戦争において、このことを証明した。彼らは、連合軍の戦争捕虜に対して、10段階の思想改造プログラムを数多く実施し、驚くべき効果をあげた。また、リバイバリズム以来、過去150年間 福音的教会は、福音を「セールス」し、人々に信仰を告白させるのに効果のある、非常に多くの実践的プログラムを編み出してきた。適応行動、モデリングなどの原理を用ることによって、教会は人々の外面的な行動を整え、聖書的性格のいくつかの側面に似るように指導することに成功してきた。

このようにして作り出された「回心者」は、外面上、本当の回心者に非常によく似ている。彼の社会的な習慣や立ち居振るまいは、その仲間のそれとうりふたつである。彼は、恐らく、自分の個人的な宗教体験から大きな平安と慰めを得ているのだろう。周りの社会が、彼を品行方正に生きることを支えている限りにおいて、彼は、自己を律し、尊敬すべき生き方をするだろう。

しかし、彼は、実のところは、「回心」していない。心が変わっていないからである。彼は、未だに無神論的な見解や、キリスト不在の世界観に基づいて思考し、心の奥底において神に属する事柄を評価せず、期待していない。なぜならば、霊的に死んでいるからである。たしかに、ほとんどの場合、このような人々は、自ら徹底して異教徒であることを自覚している人々よりはましであることを認めよう。彼は酔っ払ったり、不道徳な生活や悪を避けている。定職に付き、家族を養っているだろう。彼は「ナイスガイ」である(多くの人は、いい人と神の人とを混同している)。しかし、彼の生活の本質は、未だに、彼自身の主観的・宗教的体験にあり、全能の神への服従にはない。

背教の原因

さて、私は次のような仮説を立てた。「過去150年以上もの間、特に、アメリカにおけるバプテストとメソジストの大リバイバルが改革主義のコンセンサスを破壊して以来、これらの再生していない多数の人々が教会に入り込んだ。彼らは羊のなりをしているが、その実、山羊である。このことが、福音主義に共通して見られる背教の広がりの原因である。」考えていただきたい。20世紀の初めの数十年間、すべての主要な教派は、神学的リベラリズムを採用したことによって、異端化した。どうして、これだけ多くの異なる背景を持ち、神学的見解の異なる様々な教派に属する、これだけ多くの教会がことごとく、短期間のうちに正しい道から迷い出たのか。その構成員の大多数が実際のところ再生していないということ以外に理由はないではないか。

我々は人の心の内側を見ることはできないが、その行いを見ることは可能である。イエスはこれについて具体的に述べておられる。悪い木からは悪い実しか出ず(マタイ7・17-22)、良い木からは良い実しか出ない。それゆえ、我々は「行いを見ることによって、彼らを知ることができる」。悲しむべきことに、現代のアメリカの福音的教会は、過去百年間、悪い実を結んできた。最も成功した教会は、「脅迫を与えない」福音を説くことによって、聖書の真理について妥協することを最も積極的に選び取ってきた教会である。多くの福音的教会には不道徳がはびこっている(ほとんどの福音的クリスチャンはこれらを隠すか無視している)。実に多くの「クリスチャン」が、汚れた熱情を傾けて、神の法を憎み、それを恐れている。彼らは、嘘をつき、人を騙し、正義を曲げ、自分たちと意見を異にする者を中傷し、破壊しようとする。

 

 

02/07/21

 

 

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