クリスチャンにとって依存とは?

 

<質問>
クリスチャンにとって依存とは何ですか。人に頼ってもよいのでしょうか。

<答>
クリスチャンにとって依存とは、礼拝行為にほかなりません。なぜならば、旧約聖書において、神は「偶像に頼るな」と繰り返しているからです。だから、クリスチャンは、自分の力、金銭など、いわゆる「人間的な力」に頼ることは許されません。

だから、もし自分を助けてくれるという人が神から使わされていることが明らかな場合は、その人に助けてもらうことは悪いことではありませんが、自分が不安なために、その不安を解消するために誰かにこちらから依存していくことは間違いです。それは、その本質の部分に、神への不信仰があるからです。

こういうのを偶像礼拝と言います。

たとえ、毎日曜日神礼拝をしているといっても、究極のところにおいて、神への不審があるならば、それは、神礼拝者とはいえません。

一般の日本人が、互いに依存し合って生きているような関係はクリスチャンの間、クリスチャンとノンクリスチャンの間にはあってはなりません。つまり、「あなたがいなければ生きていけません。」というような関係を作ってはならない。

私は、「頼るべき人間ではない。これ以上つきあうと、相手の支配下に入る」と分かった時点で、すべての人間関係を切ってきました。

それが正解であったと今でも思っています。もし彼らと今でも関係を持っていれば、まっすぐに神様のことを行えません。問題を明らかにしようとした長老に濡れ衣を着せて解雇するような教会に留まることはできません。

他の牧師は、平気で偽証し、その長老や私を貶めるようなことをしてまで生き残ろうとしましたが、結局、自分も中心牧師から追い出されたり、無駄とも思える会堂建築のために、退職金を前借しないと払えない額の献金を求められました。

結局、いざとなった時に、どのような態度を取れるか、ではないでしょうか。神に頼ることができる人に怖いものはないのです。私は、人間なぞに頼る気持ちは微塵もありません。もちろん、その人が神から遣わされて助けることを進み出ている場合は別です。感謝して受けなければなりません。しかし、もし義理・人情の世界に巻き込まれるような態度で来るとか、こちらをいわば蔑視してくるような人間関係を作るくらいならば、ホームレスをやったほうがましでしょう。

そういった神様を見ることができず、人間しか見れない「依存癖のある人間」の中に入ることは危険です。日本社会にはこのような誘惑が至るところにあります。

神にのみ依存することです。それこそが、真の礼拝です。

 

 

02/12/03

 

 

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