ハーザー誌4月号奥山師による反論
本日、ハーザー誌4月号が手元に届いた。
最初、3月号に載るということで、せっせか書いて、締め切りの2週間前に提出したのだが、何故か係りの人が見落としていたため、遅れて4月号に載ることになった。また、終末論について書いてくださいということで、論文として提出したのに、なぜか、奥山師終末論論文への応答という題がついていた。さらに、なぜか、それに対する奥山師の反論までついていた。
わたしの紙数制限は2ページに対して、奥山師のは7ページ。
ずいぶん公平な扱いである。
昔なら、マスメディアは、言論の武器を占有していたが、現在は違う。
インターネットの速報性や公表性には、雑誌も勝てまい。やりたい放題はできない。
奥山師の文章は、「応答」という見出しがついていたが、ほとんど私の論文への応答とはなっておらず、「自分が想像する富井説」に対する的を得ない指摘である。
わたしは、カルヴァン主義を弁護しようとしたのでもないのに、延々とカルヴァン主義を非難する発言が続く。ウィリアム・ケアリのポスト・ミレ的なビジョンについて述べたのに、ウィリアム・ケアリの伝道を妨害したカルヴァン派の人々に対する非難が続いている。
カルヴァン派の人々が何をしたとしても、この場合、どうでもよい。ポスト・ミレの人々がケアリを妨害したのであれば、問題であるが、カルヴァン派には無千年王国説もいれば前千年王国説もいる。しかし、師は、彼らがポスト・ミレであるかどうか一言も述べていない。
さらに、わたしは、チャールズ・フィニーについて一言も触れていないのに、フィニーを悪者にした改革派教会の悪口を延々と述べている。ここでは、終末論が論点なのだ。私が支持もしていない「無千年王国説」や「前千年王国説」の改革主義者について非難されても痛くも痒くもない。
わたしが挙げたポスト・ミレを証明する聖句(へブル10・12,13、使徒2・35、使徒3・20−21→(*))に対しては、一切聖書釈義をせず、別の聖句を引用して、ただ、一般論を述べるに終始している。
「D氏[つまり富井のこと]が後半において盛んに用いている胸おどる聖句は、ポスト・ミレ式の解釈に合わせておられるが、同時にプレ・ミレの立場で呼んでも、何も矛盾がないことをお知らせしておこう。つまり、解釈の問題である。次の解説を心にとめて、もう一度それらの聖句を読んでいただきたい。」
そして、師が解説として挙げた聖句は、第2コリント4・4、マタイ25・21、ルカ17・20,21である。延々1ページにわたって、これらの聖句からプレ・ミレの正しさを説明している。
これでは応答にも反論にもなっていない。
私が挙げたへブル10・12,13、使徒2・35、使徒3・20−21をどのように解釈するのか、議論の相手が知りたがっていることくらい、分かるはずである。
このような単純なことも承知していないとすれば、ある意味において師は無能である。しかし、師は明らかに聡明な方であるから、意図的に釈義を避けたとしか思えない。
奥山師のこのような応答から、わかることは次の2つである。
(1)ポスト・ミレの指摘は痛い。まともに反論できない。
(2)ポスト・ミレを否定するためには手段を選ばない。
しかし、どんなに頑張っても、御言葉には逆らうことはできない。
もし人間的な努力で、しかもクリスチャン的ではないやり方で、相手を否定しても、祝福は来ない。
私たちは祝福されたいのか、それとも、呪われたいのか?
自分が間違っていることが分かったら、あまり悔い改めを先延ばしてはならない。
再建主義のゆえに私はこれまで様々な非難を浴びてきたが、非難者はいずれも似たような手口を使った。そして、彼らは、似たような結末を迎えた。
だまされてはならない。神は侮られる方ではない。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる。(ガラテヤ6・7)
(*)「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(へブル10・12,13)。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」(使徒2・35)。「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで(原語では「万物がもとの状態に回復される時まで」)、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・20−21)。