主の御名について

 

<ご質問>

エホバの証人は、聖書の、いわゆる神聖4文字を、「エホバ」と表記しないのは間違いであると主張していたと記憶しています。

現在、私が使用している聖書は、新改訳聖書(日本聖書刊行会)なのですが、旧約聖書の、「主」と太字の字体になっている箇所が、神の固有のお名前である「エホバ」と表記すべき場所だと彼らは主張するようですが、それは正しいのでしょうか?「エホバ」と表記しないのは、人間が聖書を改ざんしていることになるのでしょうか?また聖書学者の間では、神聖4文字の発音に関しては、ヤハゥエとかヤーウェとかいろいろな説があるようですが、「主」という表現では、神の御名を冒とくすることになるのでしょうか?

<お答え>

 聖4文字は、御名をみだりに唱えることを嫌ったユダヤ人たちが、発音することをやめたために、どのように発音するか現在不明です。(*)

 エホバの証人が主張する「エホバ」という発音も、正確に言えば、「yehva」となります。しかし、これが本当に当時そのように呼ばれたのか不明で、ただ、後代の学者がへブル語本文につけた読み方でしかありません。それで、別に「yahve」という読み方が正しいという説もありますが、どちらが正しいかわかりません。このどちらでもないのかもしれません。

 わたしは、神の御名として聖4文字が与えられているのですから、それを「主」とするのではなく、固有名詞としてのyehva(イェフヴァまたはイェーヴァ)またはyahve(ヤハヴェまたはヤーヴェ)と発音し、表記するのがよいと思っています。

 神が御自身を聖4文字で啓示されているわけですから、私たちがその御名を呼ばないということはおかしいと思います。聖書に何度も聖4文字が登場するわけで、それが別に隠されているわけでもないですから、きちんと名前で神をお呼びすることが大切なことであると思います。

 私たちには一人一人名前がついています。名前を呼ばれるときに、私たちは敏感に反応します。「おい」とか「ちょっと」と言われてもピンと来ませんが、「○○君」と「△△さん」と呼ばれると、はっとします。聖書において名前は実体を表します。それゆえ、名前のある所にその実体も存在すると考えられています(Theological Dictionary of the NT, onoma, Eerdmans, p.254)。名前を呼ぶならば、その実体が現われるという信仰から、古代の人々は、神の名を知りたがりました(創世記23・29)。「神をあがめ、神の守りを受けるには神の名を知らねばならない」(Ibid.,p255)。

 礼拝の中心は、御名を呼ぶことでした。

 「そのとき、人々は、ヤーヴェの名を呼び始めた。」(創世記4・26)

 アブラハムは祭壇を作って、御名を呼びました。

 「彼はヤーヴェのため、そこに祭壇を築き、ヤーヴェの御名を呼んだ。」(同12・8)

 幕屋及び神殿礼拝において、祭司は一度だけ御名を唱えました。

 クリスチャンは新約聖書において「御名を呼ぶ者たち」(使徒9・14)と呼ばれています。

 イスラエルは、他の神々の名を呼ぶことを禁じられていました。そのような名を呼ぶことは偶像礼拝でした。

 「ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。」(出エジプト23・13)

 エリヤはバアルの偶像礼拝者と対決するときに、このように言いました。「おまえたちは、おまえたちの神々の名を呼べ。わたしは、ヤーヴェの御名を呼ぼう。」(1列王18・24) 

 今日、礼拝の中に御名を唱えることが復活しなければならないと考えています。

 また、礼拝や実生活の様々な面において、御名を唱えることの重要性が強調されなければならないと考えます。

 クリスチャンにとって、生活のあらゆる側面が礼拝なのですから、すべてにおいて主の主権を認めるという意味で、御名を呼ぶことを行う必要があると思います。

 

(*)昔、ユダヤ人は神の御名を唱えていたのですが、アンティオコス・エピファネス(シリアの暴君)の時代に、御名を唱えることを禁じる法令が制定されました。この政権が倒された時、ハスモニア王朝の支配者たちはこの禁令を解除したのですが、ラビたちはこの聖なる御名が続けて人々の口に上らないように命令を出してくださいと国王に願ったのです。その結果、神の御名が人々の口に上ることがまったくなくなってしまい、聖4文字は「アドナイ」という代わりの呼び名で発音され、ついに本来どのように発音されいたのかまったくわからなくなりました。

 

 

 



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