正しい知識を

 

2ちゃんねるで、プレ・ミレ信者が再建主義の批判をしていましたが、その内容は、「プレ・ミレを信じると、世の中に働きかけない怠惰な人になるという再建主義の説は、品性劣悪な想像力の賜物である」というものでした。

つまり、プレ・ミレを信じても、個人がしっかりしていれば、逃避主義やデカダンスには陥る恐れはない、というのです。

私がプレ・ミレの人々に非常に奇妙な印象を受けるのは、彼らが「個人の心がけと、その持っている思想の長期的な影響」とを区別していない点です。

個人個人がどんなに心がけていても、思想に欠陥があれば、その欠陥は長期にわたって次第に姿をあらわします。

思想は必ず実を結ぶのです(*)。

今日、プレ・ミレの人々がきちんとした社会生活ができるのは、彼らがそのプレ・ミレをまじめに信じていないからです。

もしプレ・ミレに命をかけ、その前提を徹底して社会に適用すれば、その生活は行き詰まらざるをえません。

「1980年代は人類の歴史最後の10年になるだろう」とのハル・リンゼイの言葉を間に受けて、それに徹底して忠実になるならば、社会生活はできません。「まもなく再臨があります!」と説教する教会の会員で保険会社に勤めているプレ・ミレのクリスチャンは、仕事と信仰とを両立させることは不可能です。「この商品は、掛け捨てでなく、20年後満期に100万円を受け取ることができますよ」といって勧誘したら嘘をつくことになります。

学生時代にハル・リンゼイ本の洗礼を受け、強い影響を受けた私は、実際、就職も家庭を持つこともまったく無意味に思えました。

自動車免許の講習に行っているときも、「まもなく携挙されるのにこんなの無駄じゃないか」と思っていました。道を歩いているときでも、このまま自分が消えてしまって、家に帰れなくなったら、部屋のものをどうしようか、などと真剣に考えていたのです。

私が、このような過去の体験を述べてプレ・ミレの間違いを説明すると、きまってプレ・ミレの人々は、「それは極端だよ」といいます。

私は、この言葉に驚いてしまいます。

「でも、プレ・ミレの預言を真に受ければそういうことになりませんか?」といっても取り合ってくれません。

事実、プレ・ミレの人々は、自分が語っていることを信じていないのです。たとえ信じていたとしても、それを首尾一貫して生活に適用していません。

彼らは、本音の部分で現実主義者なのです。

実際に、私と誌上で議論したある有名な牧師は、あれだけプレ・ミレを主張し、「プレ・ミレには命をかけている」と豪語したにもかかわらず、私の友人が電話して確認したところ、「プレでもアでもポストでもいいんじゃないですか」とはぐらかしました。

ホームスクーリングが日本のクリスチャンにも広まると、さらにプレ・ミレの瓦解は進むでしょう。

なぜならば、ホームスクーリングのビジョンとプレ・ミレとは絶対に調和しないからです。

ゲイリー・ノースは、「もしキリスト教を社会に影響を与えるものに変えようとするならば、(プレ・ミレを信じる)ディスペンセーショナリズムを秘密裏に捨てざるを得なくなるだろう。」と言いました。

事実、3大ディスペンセーショナリズム神学校は、社会に影響を与える教えを採用したために、1990年代までに、伝統的なディスペンセーショナリズムを秘密裏に捨ててしまいました。

この状況は、進化論と似ています。

一般の人々は、進化論が理論的に行き詰まっていることを知りません。個体発生が系統発生を再現するというポピュラーな説は20世紀の初頭にすでに学界において捨て去られているにもかかわらず、学者はそれを人々に伝えていないため、世間ではまだ根強く信じられています。すでに大本において瓦解しているのに、人々はその事実を知らず、NHKなどは相変わらず生物を扱う番組において進化論を宣伝しています。

日本では、いのちのことば社が、相変わらず「レフトビハインド」などの通俗終末論本を出しているため、人々は、プレ・ミレの実際の状況についてまったく知らずに、終末が近いと信じ込んでいます。

私たちは、ホームスクーリングをはじめとして、この世界を変え、世界にキリストの主権を確立するために活動しようとするまじめなクリスチャンに、正しい情報を提供し、彼らを激励しなければならない、と思います。



(*)

ゲイリー・ノースは、プレ・ミレが現代の教会に与えた影響を雄弁に例証するある読者の手紙を引用しています。

「我々は、教会史から自らを切り離し、自分の部屋に閉じこもってしまった。というのも、我々は教会の未来を否定したからだ。我々は現在志向である。それゆえ、政治学者エドワード・バンフィールドによれば、我々は下層階級なのだ。バンフィールドは、『上流階級の人々とは、未来志向の人々である』と定義した。人間がどの階層に属するかは、どれだけお金を持っているかによってではなく、彼が未来に対してどのような意見をもっているかによって決まる、というのだ。この定義によれば、現代の教会は下層階級である。

私は、クリスチャンの父兄が次のように尋ねるのをよく耳にした。『ラテン語なんてやって何になるの?』と。つまり、『過去について正確な知識を得ることにいかなる益があるのか』と。定職を持ち安定した生活をしているということに満足し、神からの召しに応えようとしない現在志向の人々にとって、そのような知識はあまり意味がないことだろう。このような人々が集まってきて会堂を埋め尽くしていることに満足している教会の牧師にとっても、同じだろう。これこそ、今日我々が直面している問題なのだ。」(Gary North, "Rapture Fever--Why Dispensationalism is Paralyzed"(ICE, TX), 1993. p. 115.)

 

 

03/03/04

 

 

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