キリスト教は偏狭か?

 

>おや、そうなんですか?

>8月3日の富井さんの掲示によれば、「偶像礼拝を許容する人は、絶対に救われな

>い。・・・我々が声を上げなければ、神は、我々が偶像礼拝を許容したとみなされる

>のだ。」が反対の理由でしたよね。

 

個人としてそれぞれの日本国民が何を信じていても、国の法律上は自由なのです。我々クリスチャンが、ほかの人の信仰をあれこれ指図はできません。「聖書によれば、おまえの信仰は偶像礼拝だからやめろ。」と言うことは、不遜であり、傲慢です。私たちはそのようなことをするつもりはまったくない。(「偶像礼拝を許容する人は、絶対に救われない。だから反対すべきだ。」と言ったのは、クリスチャンに対してなのです。クリスチャンと名乗る人々が、首相の参拝を肯定するならば、彼も首相と同じように参拝したことになるからやめなさい、と言ったのです。)

私たち日本人にはいろいろな信仰の人々がいるのです。その代表である首相が、私たちが信じてもいない宗教行為を我々の代わりに行うならば、「それはやめて欲しい」といっているのです。

例えば、もし、首相が個人的にオウム真理教の信仰を持っていて、オウムのシバ神を国民を代表して参拝するといえば、ほとんどの国民は反対するでしょう。自分が信じてもいない宗教行為を自分の代表として行われては、誰だって不快ですよね。

神道の人は、誤解しているようですが、日本人なら神道は当然だろう、というのは古い時代の遺物的発想であって、信教の自由が認められている現在、日本には実に多様な考え方がある。しかも、戦前と戦中に、国家神道は、宮城遥拝、神社参拝を強制し、多数のクリスチャンを迫害し、拷問にかけ、中には殺された人もいましたね。創価学会や大本教などもその犠牲者でしたね。そのような迫害を再び起こしかねない「日本人なら参拝を推進すべきだ」的な画一的な発想に、私たちは警戒しているのです。

私は、首相であろうと、誰であろうと個人的に神道を信じることを禁止することは望みません。信仰は、自分の心から出たきわめて「本質的」「個人的」な事柄であって、他人から強制されるべきものではありません。

日本は、単一民族、単一言語、単一信仰の国である、というのは、幻想であるということを、首相はじめ靖国参拝を肯定する人々は理解していただきたい。「戦争で犠牲になった英霊を参拝するのは当然だ」というような情緒的な発想は捨てて、厳密な思考を、首相はじめ靖国参拝を推進している方々は理解していただきたいですね。

 

>そうなると税金を使わなければ、問題ないということですか?

>それに総理が、「税金」を使うかどうかは、まだわかりませんね。

 

国会議員は、税金だけではなく、公僕として国の税金で生活している人々なわけですから、特定宗教に公費を使うだけではなく、その職務全般において、特定宗教の利益のために行動することは違憲なのです。個人として神社参拝しようが、教会に通おうが自由です。しかし、大臣として、首相として、公務員としての肩書きで、そういった行為を行うことはできません。

その立場上、国全体の利益を代表しているのです。日本が神道を国教としているわけではないですから、神道で参拝することは、国を代表する行為ではない。絶対にやめて欲しいですね。

 

 

>>>第一「ヤーウェ」の神といわれてもキリスト教を信じない圧倒的多数の日本人(確か

>>>キリスト教の信者は日本国民の1%と聞いた記憶があります)にとって、路傍の石こ

>>>ろ程度の価値すらないと思います。

>>>それよりも日本人には道祖神の方がすんなりと受け入れられると思います。

>>何千万人、何億人が、何かをどう解釈しようと、彼らにとって価値があるかない

>>かは、その本体にある固有の価値を左右するものではありません。

>だから、富井さんの説は、「一つの解釈でしょう」と言っているのです。

>富井さん達にとっては「価値あるもの」でも、それを信じない人々にはいわしの頭ほ

>どの価値もないのです。

 

だから、Tさんの説も、「一つの解釈でしょう」と言っているのです。Tさん達にとっては「価値あるもの」でも、それを信じない人々にはいわしの頭ほどの価値もないのです。

だから、そのいわしの頭を、わたしの代表である首相に参拝して欲しくないといっているのです。わかりますか?

 

>富井さんが「偶像礼拝を許容する人は、絶対に救われない。たとえその人が洗礼を受

>け、毎週教会に通っていても、絶対にゲヘナに落とされる。」と言い、更に「偶像礼

>拝とは、聖書の定義する偶像礼拝という意味なのです。聖書では、「ヤーウェ」以外

>の神や霊や人間や動物やものなどを拝むことを偶像礼拝と言います。神社では、ヤー

>ウェを祭っているわけではありませんから、神社で参拝することは偶像礼拝です。」

>と述べてますね。

>これはどう読んでも、神社に参拝すると偶像礼拝だから『絶対にゲヘナに落とされ

>る』となりますね。

>だから、私はそれは聖書のひとつの解釈でしょう?」と言ったわけです。

>また、多数だから、真理だとも言っておりません。

>普通に「神社・仏閣に何の抵抗もなく参拝できる日本人」は、先祖から受け継いでき

>た事を抵抗なく行っているのですから、突然「神社を拝むとゲヘナに落とされる」と

>言われても受け入れられないでしょう」と言うのです。

 

だから、受け入れろ、受け入れなければ承知しないぞ、とは言っていないのです。クリスチャンとか、牧師とか、宣教師とかが、何を言おうと、「だから受け入れなければならないのか。じゃあ。」と必ずしも対応する必要はありません。それは、まったく個人の自由な選択です。しかし、じゃあなぜ私たちが、「神社・仏閣に参拝するとゲヘナに落ちる」と言うかと言えば、「聖書がそのように言っているから」ということでしかないのです。私たちが、誰かの信仰を強制する権利はありません。ただ宣言しているだけです。それを「ああ、それはあなたの価値観だね。」と言うことも自由ですし、「そうか。」と思うことも自由です。もし、このような宗教の教理宣伝にいちいちめくじらを立てていれば、とてもこの社会では生きていけません。宗教は無数にあるのですから。オウムが何を言おうと、創価学会が何を言おうと、無視すればよいのです。

牧師や宣教師やクリスチャンたちは、「聖書がこう言っているから、こうしなければならない。」と信じている。そして、それをほかの人々にも理解して欲しい、救われて欲しいと願っている。なぜならば、誰も地獄に行って欲しくないからです。「なに、そんな地獄なんてあるはずがない」と言う人は無視すればよいのです。なぜならば、誰も死後の世界について経験科学的な証拠をつかんでいる人はいないからです。死後の世界があるかもしれないし、ないかもしれない。誰もわかりません。誰もわからないことについては、信仰しかないのです。

 

>「真理は一つ」、それはその通りでしょう。

>それでは、キリスト教が旧教と新教に分かれているのは、なぜですか?

>富井さんが述べられたように、この「偶像礼拝」ですらその解釈に大きな隔たりがあ

>りますね。

>それは「聖書の解釈の相違」ではないのですか?

>多分それぞれの分派の方々が、「自分の方が正しい」と言うのではありませんか? 

 

これは、どの分野についても言えますね。科学の分野においてだって、学説は多数存在します。しかし、その学説がたくさんあることは、真理は一つもないということを証明にはなりませんね。もし、「学説がある」→「真理は存在しない」という理屈が成立すれば、「学説がある」という段階で、科学は研究を諦めなければならなくなるでしょう。

キリスト教において旧教と新教の違いがあることは、どちらも真理ではないからだということにはなりません。偶像礼拝においてカトリックとプロテスタントには大きな隔たりがあります。それぞれが自分は真理だと主張しています。しかし、誰の口にも戸板を立てることはできないのですから、各人の信念を強制はできません。それぞれがそれぞれの主観によって判断するしかないのです。

 

>よく言われることに、「日本人は誕生時の宮参りで神社を参拝し、長じて結婚すると

>き教会でキリスト教の神に誓いを立て、そして死んだら経を上げて貰いお寺に葬られ

>る」ということがあります。

>一神教の世界から見たら、正に気違い沙汰かも知れません。

>しかし、この相違が日本にキリスト教が大きく育たなかった理由の一つと思います。

>惟神の道で生活してきた日本人は、森羅万象あらゆるものに神が宿り、霊が宿ると考

>えてきました。なんでも拝んできました。実におおらかなのです。

>だから、靖国神社に参拝した後、必要ならば教会のミサにも参列できるのです。

>これは今現在プロテスタントである富井さんも日本人であるなら、遺伝子の中に、根

>強く残っておると思います。

 

世界のすべての民族はもともと多神教だったのです。森羅万象あらゆるものに神が宿り、霊が宿ると考えたのは、ギリシャ人でもユダヤ人でもアングロ・サクソンでもゲルマンでも同じです。イスラム諸国も、もともとは、多数の豊穣神を拝み、あらゆるものに神を見る(包摂がだめなら)包容的な信仰でした。イスラムのイランも、もともと、ゾロアスターという善悪二神を信じる多神教でした。

しかし、彼らは最後に一神教を受け入れるようになりました。現在、アフリカではキリスト教かイスラム教が大きな勢力を持っていますが、もともとはアニミズムの多神教です。国民の30-40%がクリスチャンである韓国でも、1億人の信者のいる中国でも同じです。

日本人だけが特殊なわけではないのです。

日本にキリスト教が大きく育たなかった一つの理由は、時間がまだ経過していないからです。まだプロテスタントの宣教が開始されてから100年あまりです。カトリックにしても歴史は500年ですが、その大半を禁教の時代に費やされたので、本格的な宣教が始まったのは、戦後になってからと言えるでしょう。

ゲルマンが本当にキリスト教化されるには、1000年かかったといわれています。ローマや地中海諸国が本当にキリスト教化されたのも400年かかっています。

どの民族にとっても、多神教のほうが受け入れやすいのは、当然です。何でもあり、自分の欲望にあわせて自分の神々を創造していけばいいのですから、人気が出るのは当然です。しかし、同時に、人間は真理を求める気持ちもあるのですから、本音の部分では、一神教を信じることを望んでいます。例えば、自分が乗った飛行機が墜落しそうな時に、「神様!」と叫ぶ人の心に浮かぶのは、宝船に乗った七福神ではないでしょう。

人間の高貴な本性は、そのような偶像を本質的に拒否しているのです。しかし、それじゃあ、自分の行為を裁く一神教の神を受け入れることにも、抵抗がある。人間は「神の似姿」であり、みな、非常に高貴な存在です。だから、人間には、本物を求め、それを察知する能力があります。

どの民族も、時代の試練を経過すると、本物だけを求めるようになり、まがい物の神々――自分の都合のよいときだけ現われておべんちゃらを言う多神教の神々――は淘汰されていくのです。日本人がキリスト教を受け入れるのも時間の問題なのです。

 

>もちろん、中には他の宗教を信仰しているので、神社にもキリスト教会にも行かない

>という宗教団体の人もいるでしょう。(この際そういう人達は除きます)

>また惟神の道は、「御利益宗教」ではありません。

 

御利益宗教には殉教者というものがありません。なぜならば、常に神は、人間の利益のために存在するから。偶像とは、人間の好みにあわせて作られるのです。今日のアイドルのように、アイドルが自分の好みの顔やスタイルや行動をとらないと、ファンはアイドルを捨てます。自分がアイドルのために犠牲になることはありません。ときに、狂信者が自殺することもありますが、それは、自己陶酔であって、信条を守るために自分の信念を貫くための自己犠牲とは違います。神道もかつて行っていた、人身御供は、自己犠牲ではなく、集団の中の最も立場の弱い、若い女とか子どもを生贄に捧げるのです。つまり、社会の強者による弱者の利用、虐待でしかありません。

 

>また、「聖書に書いてあるから、正しい」のだと言われても、これこそ富井さんの言

>うところの『「うるさい。黙って俺の目を見ろ、何も言うな。」と言う非常に偏狭な対

>応』なのではありませんか?

 

「聖書に書いてあるから、正しい」ということを嫌うならば、私たちは、その人を無理やり信じさせることはしません。教会に入らなければよいのです。もしすでに入っているならば、教会から離れればよいのです。教会は、聖書を唯一の基準として生活することを認めた人が洗礼を受けて加入する場所ですから。

そもそも、「規律による強制」は、どの団体にもどの宗教にも存在します。例えば、学校は、「教師の指導にしたがい、学業を修めることを目的とする団体」ですから、もし教師の指導にしたがわず、学業を修めることを嫌う人々が自分勝手なことをすれば追い出されます。集団や社会があるならば、そこに規律が必要であり、「排他性」は不可避です。この意味において、包容的な団体など、絶対に存在しません。会社が社員に規律を強制しなければ存在できません。国家でも同じです。

つまり、包容的な宗教、包容的な集団、包容的な国家など、砂上の楼閣なのです。どの集団にも、規律があり、タブーがあります。集団や社会や宗教から、「うるさい。黙って俺の目を見ろ、何も言うな。」という要素を完全に取り去ることはできません。

問題は、その規律やタブーが理に適ったもの、健全なものであるかどうかです。規律やタブーが、理不尽であるならば、その集団は独裁、排他的、独善的というレッテルをつけられてしまいます。信者には摂生と禁欲を強制するが、教祖が酒池肉林の生活をしているような団体は、独裁、排他的、独善的です。国民に対して質素と倹約、国家に対する献身を要求しながら、指導者たちは豪勢な生活をし、反対者を有無を言わせず弾圧する理不尽な国家は、独裁国家と言います。

もし、集団や社会や宗教が、正当な批判者に耳をかさず、平気で理不尽なことを言い、それをメンバーに強制し、「うるさい。黙って俺の目を見ろ、何も言うな。」というならば、それこそ、「偏狭」の名をつけられてもおかしくはありません。

しかし、キリスト教はそのようなことは言いません。聖書は、神が万物を創造した、と教えています。そして、人間は神のために存在すると教えています。そして、神の規律に違反した者は、死後、ゲヘナに落ちると言います。しかし、同時に、どんなに罪人であっても、キリストの十字架の身代わりの犠牲を信じるならば、その人はあらゆる罪を許されて、けっして裁かれることがなく、永遠の生命を受けるとも言われています。これはけっして理不尽ではありません。正当な主権者(創造者)がいて、規律(創造者の意志)がある。規律は、理不尽なものではなく、「神を愛し、人を自分と同じように愛する」ことです。「自分がして欲しいことを、あなたの隣人にしなさい。」ということです。そして、それに違反した場合の刑罰があり、救いもある。だから、クリスチャンは、神に対して「あなたはひどい。独裁者だ。」とは言わないのです。

これが、もし、「わたしは創造者でもなんでも無い。しかし、わたしはおまえに命じる。地下鉄に行ってサリンをまいてこい。命令にそむけばリンチだ。」と言うようなことを言えば、理不尽な独裁者ということになります。

おわかりでしょうか。

 

01/08/10

 

 

 



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