吉井春人牧師の批判に答える8
<吉井先生>
天皇制の問題が書き出しでしたね。
それで、再建主義ではなく「聖書の天皇観」という論点にシフトしていた筈ですが、私が立ち止まったのは、「聖書解釈」についてでした。バンセンが示す聖書解釈、たとえば、ヨハネ8:1ー11解釈は、受け入れられません。私は、彼を尊敬しつつもバンティル主義ではありません。ジェーファーが正統な手続きをもって批判される場合もあるでしょうし、オランダ改革派の金字塔ともいわれるヴァンティルとて、Jフィレームやスプロールからの批判を受けなければなりませんでした。
使徒の1章について、「いつとかどんなときとかいうのはあなたがたは知らなくてもよい」が対話の際に示されていたといったのです。このテキストの脈絡からは「終末論を神学的遡上にあげることが禁止されている」とは理解しませんでした。富井兄は、この箇所をどのように読まれるのですか。
姦淫の女の記事は、バンセンの解釈としてS氏からも紹介されたことがあります。この箇所を罪深い女への無条件の赦しと解釈することは、主イエスの地上での活動と矛盾しません。主イエスは、姦淫罪に対する石打を容認されていたという前提があって、パリサイ人に対し「論理の首尾一貫性を求められた」ゆえに「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい」と読むのは、解釈上の提案としては無理です。
<富井>
どうも先生が何をおっしゃりたいのか理解しにくいのです。
私が述べたのは、この個所が「再臨の時期指定を禁止」し、それゆえに、ポスト・ミレが述べる「世界の諸民族の弟子化の達成」は約束されていないと解釈するための主要な論拠になるということに無理があるということです。ポスト・ミレは、歴史においてキリストの王権は拡大し、ついに、全世界の民族がキリストの弟子となるという「大宣教命令は実現する」ことを信じます。そのことを保証する個所は随所にあります。たしかに、そのピンポイント的時期指定(西暦何年何月何日に再臨がある)は、間違いであり、それはポスト・ミレの人々も否定します。聖書全体において、そのような時期指定を期待することは間違いであると言われています。しかし、歴史が誰のものであり、歴史において福音が勝利するかどうかという課題について考えるならば、聖書全体の主張から見て、やはり、歴史は福音によって征服される、それゆえに、福音による世界の回復が来るまで再臨がないと考えるのが論理的であり、正統的であろうと考えるのです。
事実、17世紀から20世紀前半までの世界宣教の主役は、カルヴァン主義ポスト・ミレ論者でした(http://www.millnm.net/qanda/calvn.htm)。ポスト・ミレは、ウェストミンスター神学校の創設者である、メイチェン、アリスの主張であり、改革派神学の中心に属するC・ホッジ、ローレイン・ベットナー、ウォーフィールドらの主張でもあります。
残念ながら、20世紀になって、2度の世界大戦から来る悲観的歴史観により、ポスト・ミレの影響は徐々に小さくなっていったのですが、歴史において「福音の勝利」を信じることが世界宣教に大きなモチベーションを与えてきたというのは事実でしょう。アイアン・マーレーの「ピューリタン・ホープ」はこのことを強力に証言しています。
>姦淫の女の記事は、バンセンの解釈としてS氏からも紹介された
>ことがあります。この箇所を罪深い女への無条件の赦しと解釈す
>ることは、主イエスの地上での活動と矛盾しません。
理由が示されていないのでまったく納得できません。
イエスが律法を越えて、無条件に許しを与えるなどということは、「律法の成就者」としてのイエスの主要な役割と矛盾します。この矛盾を解決できるだけの理由を明示してください。これが示されなければ先生の立場は、無律法主義に道を開く「抜け穴」を作ることになり、結局、新約時代において、「姦淫の女を無条件で赦したイエスにならえ。律法は無効になった。律法を越えることが愛だ」というようなディスペンセーショナリズム的謬説の流布につながります。これにきちんと答えることは、律法の継続性を信じる改革主義の教職者として絶対的責任があります。
02/06/19