戦後の国家主義教育の限界
我々が受けてきた教育は、国家主義、集団主義の教育である。
人間は国家のために、社会や共同体のために存在すると教えられてきた。もちろん、個性の重視とか個の自立が叫ばれてきたが、それは本筋ではないのだ。国家が多額の金を出している義務教育制度において、国家の意思が第一に置かれていることは疑うべくもない。
日本の教育のみならず、世界の教育において多大な影響を与えたのは
J・デューイである。デューイは、ヘーゲル主義者ジョージ・S・モリスの弟子である。モリスは次のように述べている。「…教育は、子供中心ではなく、国家中心であるべきだ。ヘーゲルは、『子供は、社会の歯車として機能しない限り、個人としての価値はまったくない。』と考えていた。」モリスのヘーゲル主義はデューイに引き継がれた。デューイは「子供は個人の才能を発達させるために学校へ行くのではなく、組織体としての社会の『単位』になるべく行く。」と語った。
ヘーゲルにとって、国家は法と倫理の源であり、自由の体現者であった。国家は善悪を定義し、人々に完全な自由を与える「世界を歩む神」、「実際的神
actual God」であった。デューイは、この「神」を「偉大なる社会」という名で呼んだ。人間は、この「偉大なる社会」が到来しない限り本当の人間になることはできない。人間は神の似姿として作られたのではなく、社会の似姿として創造されるので、この真の社会が誕生するまで人間は真の人間となれない、という(
John H. Hallowell: Main Currents in Modern Political Thought, p. 548. NY: Henry Holt, 1959, cited in R.J.Rushdoony: Messianic Character of American Education, p.160, NJ: P&R, 1963)。「偉大なる社会」において、個人と個人の間には成功や失敗によって差が生まれてはならない。宗教において、救われる者と滅びる者との差があってはならず、教育において、能力による区別があってはならない。競争よりも協力が尊重され、大学格差は敵視される。
1933
年7月1-7日に行われた米国教育局のシカゴ大会において、デューイは、自分たちを貴族階級とか「プロフェッショナル」とみなし、誇り高ぶっている教育者や教師たちを批判した。教師にとって必要なのは「同情の心」であり、「銀行家」やプロフェッショナルなど少数の特別な階級の人々と同調するのではなく、労働者や大衆と同調すべきだと語った(Dewey, Education and our Present Social Problems, N.E.A. Proceedings, 1933, pp. 687-689)。彼にとって民主主義とは、崇高さへの向上ではなく、社会における低い部分に同調し、どの階層も一致できる最小公倍数を得ることであった。それゆえ、デューイの影響を受けた人々の間では、飛びぬけた才能を持つ生徒は「出る杭」として打たれた。成功も失敗も、有能者も無能者も、高尚も低俗もなく、みなが等しく最も低いレベルで一致する社会こそが彼の理想であった。「デューイの教育思想と理論は戦後日本の教育に大きな影響を与えた」(
http://www.annie.ne.jp/~mhayashi/html/tosho/dewey.htm)。今日、我々の周りにいる中学生や高校生の中に、彼の国家主義、集団主義教育の結果を見ることができる。いじめの根本には、異質なものの排除がある。すべての差を解消して、もっとも低い部分で最小公倍数をとっていく思想に影響されれば、有能な異分子が排除されるのは当然である。今日登校拒否児が急増しているのは、デューイ流の集団主義によって個性をつぶされることに子供たちが耐えられなくなっているからだろう。デューイにおいて、倫理とは国家が与えるものだ。キリスト教社会に伝統的に採用されてきた高等法は否定された。世界は、主権者である人間の意志だけで成立する閉じられた系であり、外部から超越者が法を与えることなどあってはならない。
戦後の日本人の間において道徳が崩壊し、物事の正邪の区別ができなくなっている子供たちが増えているのは、超越者が与えた普遍的道徳を教師たちが教えることに失敗したからである。明治において、教育勅語があり、かりそめにも超越的な法が用意されていたが、戦後の日本にはそのような道徳を教えてくれる人がいなかった。
デューイにおいて、教育は、国家建設のための手段であるから、子供たちは国家に役立つ人間として成長するはずである。しかし、聖書において、教育とは、神に役立つ人間を育てることにあるのだ。神に役立つ者とは、契約を守って、地上を神の御国と変えることのできる者である。
聖書の教育の基本は、国家ではなく、家庭である。よき父や母となり、倫理的にしっかりとした強い家庭を作れる人間を育てることである。これは、聖書律法のほとんどが家庭に関する掟であることを見てもわかる。国家や共同体の成否は、この家庭に関する律法を忠実に守るかどうかにかかっている。倫理的に失敗した家庭が増えるならば、社会や共同体の力は次第に小さくなる。聖書におけるイスラエルの歴史はこのことを雄弁に語っている。
しかし、ヘーゲル―デューイの教育の焦点は、倫理ではなくパワーに、家族ではなく国家に置かれている。しかし、どんなに英語、数学、社会、理科などにおいて優秀な成績を収める国民が増えても、彼らが倫理的に破産し、家庭が滅茶苦茶になっているならば、国は衰亡する。
戦前の日本は国家主義教育で、戦後はそうではない、と考えるのは誤りである。世界のすべての近代国家は、戦前も戦後も、ヘーゲル―デューイの社会主義、国家主義の強い影響下にあるのだ。むしろ、戦後、ますます聖書の神が捨てられる傾向がある以上、社会主義、国家主義、集団主義の圧力は強くなるといえるだろう。
クリスチャンは、今こそ、この近代思想の社会主義、国家主義を克服し、真に聖書的教育を子供たちに施さねばならない。ヘーゲル―デューイ主義を捨てない限り、ノンクリスチャンの家庭はこれからも崩壊しつづけるだろう。頑固に自分の道を愛する人々に期待することはできない。我々は、独自に、聖書にのっとった子育てを実践しなければならないのだ。そして、強い信仰の人を育て、クリスチャンホームを増やして、日本において強力な集団を形成しなければならない。もしクリスチャンがこのことに失敗するならば、日本は
2度と立ち直ることができなくなってしまうだろう。
01/11/30