裁判に完璧を求めると裁判制度は実質的に無効になる
人間の裁判には誤りがつきものです。
「だから、人を処刑することは間違いである」と主張するならば、あらゆる裁判制度が不可能になります。
人間が行う以上「絶対に正しい処置」というのはありえないのですから、冤罪や誤審によって処刑される人がいても仕方がありません。
もちろん、冤罪や誤審を根絶する努力は必要ですが、「それらが0になるまで裁判を中止する」というのは理想論です。
聖書において、死刑判決を加えるのに必要な手続きは、二人または三人による証言が一致するということだけです。
今日の日本において、「完璧な証拠を求めなければ人に裁きを下すことはできない」という主張が幅をきかせているため、際限無く裁判が進んで、最終判決が下るまでに
25年もかかるということもある。これは、実質的に裁判制度が崩壊していることを意味しています。人間の制度に完璧は不可能です。
オウム事件においてこれだけ証拠がでているのですから、即座に結審して、刑を宣告すべきだと思います。いたずらに裁判を引き伸ばすやり方によって、
25年も裁判を引き伸ばされれば、国民の中から、「罪を犯したら相応の罰が下る」という正義の意識が失われます。過去に起きた何度かの誤審や冤罪による処刑を例に出して訴える死刑廃止論者の理想論に言い負かされると、明らかに死刑に値する犯人すらも処刑できないということになり、国家から人命尊重の精神が失われます。
人をワガママ勝手に殺す者に即座に報いてくれる裁判を期待できなければ、人々の間には、失望感が広がり、自衛を試みる者が現われても不思議ではありません。つまり、日本の政府は統治能力がないと宣告されることになるのです。