ポスト・ミレ――勝利の終末論
六月号において述べたように、現在流行しているプレ・ミレは、歴史において、主流派を形成したことはなかった。とくにディスペンセーショナリズムのプレ・ミレは、1830年から始まったごく新しい考え方である。
教会は歴史的に、ポスト・ミレを採用してきたのであり、この立場を定めたのは、紀元4世紀のアウグスチヌスであった。ウィリアム・ラットガーズ博士は、次のように述べている。
(アウグスチヌスは)千年間を象徴として解釈している。教会の聖徒たちは、地上で戦う兵士であり、昇天した人々は現在キリストとともに支配者である。この意味で、我々は現在千年王国の只中に生きている。教会時代は千年王国の時代と同一視されているのである(参照・『神の国』)。…アウグスチヌスは、神学思想全般の形成者、主導者の役割を果たした。彼の、神の国、教会、黙示録における千年王国の象徴などについての解釈は、千年以上もの間明白な影響力を持ち続けた。それは、高度な技術用語を駆使し、特殊な研究を進展させた現代の啓蒙的神学研究の洗礼を受けた後でもなおも強い影響力を持ちつづけている。彼のあとに続いたのは、偉大なラテン教父たち、大教皇レオ、大教皇グレゴリー、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アキナスらであった。かくして、プレ・ミレは、教会によって禁止され、排斥された。この立場が台頭したのは、後に登場した一部の分派主義者やセクト主義者の間だけであり、それらは今日に至るまで、周期的に現われては消えていった運動でしかなかった。その粗野で非聖書的な形態ゆえに、プレ・ミレが、教会の支配的な信仰から奨励を受けたということはなかった。(Dr. William H. Rutgers, Premillennialism in America, p.71, 1930. cited in The Millennium by Loraine Boettner, P&R, p.116)
今日、とくに日本においては、出版されている本が、プレ・ミレ(それもディスペンセーショナリズム)に傾いているため、プレ・ミレが主流的な終末論であるかのように見なされているが、実際はまったく逆である。アウグスチヌス以来、教会の主流派を形成したのは、ポスト・ミレであり、この教会時代こそが千年王国であると考えられてきた。
キリストは、昇天され、天の王座に着かれたときから、千年王国は始まったのであり、昇天したクリスチャンと地上のクリスチャンはキリストとともにこの世界を支配している王である。キリストが世界の王である以上、歴史がキリストの支配下に置かれるのは当然のことであり、それゆえ、現在キリストの御国は地上において成長しつつある。そして歴史が終わるときに御国は完成し、永遠の世界へ移行していく。
ア・ミレは、王となったのは、昇天したクリスチャンだけであると考え、歴史の中において、地上のクリスチャンは王ではなく、それゆえ、彼らの働きによってこの地上がキリストの支配の下に入ることを信じない。ローレイン・ベットナーは次のように述べている。
クリーフォスは、千年王国は地上の状態とはまったく関係がないと唱えた最初の人々のひとりである。彼によれば、「中間状態にいる昇天したクリスチャンがキリストとともに天において支配している状態」こそが千年王国なのだ。これは、すでに指摘したように、もっとも厳密な意味でのア・ミレである。というのも、それは、千年王国をこの世界とは完全に無関係なものと考えるからである。…ポスト・ミレと異なり、彼ら(ア・ミレ)は現在の経綸において、世界がキリスト教化されることはないと主張する(Loraine Boettner, The Millennium, pp.117-118)。
この意味において、ア・ミレは、プレ・ミレと同様に、歴史内におけるキリストの支配を認めない悲観主義的終末論である。このような終末論を信じるならば、クリスチャンは、確信をもってサタンとの戦いを進めることができない。サタンとの戦いにおいて勝利するとの信仰はキリスト教信仰の基本であり、それゆえ、プレ・ミレもア・ミレも、正統的な信仰と呼ぶことはできない。聖書は、はっきりと、クリスチャンが歴史内において勝利者であると主張している。
子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです(第1ヨハネ4・4)。
歴史とは、神がサタンの国を制圧する過程である。アダムを堕落させることによって、サタンはこの世界において自分の主権を獲得した。しかし、神は、キリストを通じて、世界をサタンから奪回する計画を立てられた。そして、事実、キリストが十字架にかかったときに、サタンの国は法的に滅ぼされた。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2・15) しかし、実際的には、まだ残党がゲリラ戦を行っている。クリスチャンは、これらの残党どもを掃討するために召し出された。相手はすでに敗北している軍隊に属しているのであるから、我々よりも弱い。だから、ヤコブは「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(4・7)と述べた。イエスも、「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝った。」(ヨハネ16・33)と述べておられる。キリストの十字架以後の時代は、絶望的な抵抗を試みているサタンの残党どもを掃討するための時代なのだ。
クリスチャンは、サタンの国を滅ぼし、そこにキリストの御国を打ちたて、ついに世界の諸国民をすべて弟子とし(マタイ28・19-20:世界の人類全員が救われるというわけではない)、「御心が天で行われるように地上でも行われるように」との祈りを成就する。しかし、プレ・ミレは、このような勝利をクリスチャンに約束しない。いや、むしろ、歴史における敗北を約束する。これから、クリスチャンがどんなに世の悪と戦い、世界をキリストのために獲得しようと試みても、結局、反キリストの世界制覇によって、打ち砕かれ、大きな患難の中に投げ込まれる運命であると考える。
しかし、このようなストーリーを聖書から論証することはできない。
<反キリスト>
例えば、反キリストは、再建されたローマ帝国(ヨーロッパ共同体)から現われる独裁者であると一般に言われているが、それは、聖書において次の
4箇所しか登場しない。小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります(1ヨハネ2・18)。
偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです(
1ヨハネ2・22)。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです(
1ヨハネ4・3)。なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです(
2ヨハネ7)。これらの個所からどうして反キリストはヒトラーのような単一の独裁者であると証明できるのだろうか?ここで、反キリストとは、「多くの」とか「大ぜい」の人々であると言われている。また、これらの個所からどうして反キリストは世界を支配する政治的な人物であると証明できるのだろうか? 彼は、「イエスがキリストであることを否定する者」であり、「イエスを告白しない」者であり、「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない」者であり、「人を惑わす者」であると言われているが、どこにも世界を支配する政治的な人物であると言われていない。ヨハネの言葉から分かることは、彼らは、宗教的な人々、イエスをキリストと認めない異端者であるということだけである。
また、反キリストが終末に現われる人物であるとどうして分かるのだろうか。たしかに、
1ヨハネ2・18では、「終わりの時」という言葉が用いられている。しかし、ヨハネは、「今は終わりの時です。」と述べている。つまり、紀元1世紀のヨハネが生存している時が世の終わりであり、しかも、すでに「反キリストは現われてい」ると言っている。これがどうして最後の審判の直前という意味での世界の終末に現われると考えられるのだろうか。そもそも、手紙とは直接の読者が分からないことを記すものではないのだ。手紙の読者が読んでもチンプンカンプンな、ヒトラーだとか、ムッソリーニだとか、ロスチャイルドだとか、ローマ教皇だとか、終末に現われる再生ローマ帝国の皇帝だとかについて、書いて何の益があるのだろうか。ヨハネは、読者に対して「反キリストに注意せよ」と警告を発している。そうならば、この反キリストとは、紀元
1世紀に登場した、読者がすぐに理解できる人物であると考えるのが筋ではないだろうか。<大患難>
また、大患難についてはどうだろうか。
プレ・ミレの人々は、これから大患難がやってきて、教会は大きな迫害に巻き込まれると言う。そして、この根拠となるのが、マタイ24章9−14節だと言う。
そのとき、人々は、あなたがたを苦しい目に遭わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大勢つまづき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
さて、この箇所は、終末の預言なのだろうか。文脈を見ると、これは、けっして世界の終末の預言ではなく、「イスラエルの」終末の預言であることが分かる。
イエスは、弟子たちが、エルサレムの神殿の壮麗さに驚嘆しているときに、次のように言われた。
このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。(24・2)
そこで、弟子たちが、イエスに質問する。
「お話ください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(3)
イエスは、この質問に対して、4節から31節において終わりの様子を語られる。
現在、この前兆は、世界の終末の前兆として語られることが多い。しかし、どこにもそれを示唆する箇所はない。並行箇所を見ると、さらに明らかである。
宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。『あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。』彼らは、イエスに質問して言った。『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。』・・・(ルカ21・5−7)
イエスは、「あなたがたの見ているこれらの物について」言われた。「あなたがた」とは、「イエスの目の前にいる弟子たち」を指す。「これらの物」とは、「すばらしい石や奉納物」であり、それによって飾られた「宮」である。それ以外のいかなるものを指しているというのだろうか。もし、大学受験の問題で、「これらの物」とは何を指すか答えよ、と聞かれた時に、「それは、終末期に現れるユダヤの神殿のことである」と答えたら零点になるだろう。どこにも、終末期に現れるユダヤの神殿を示唆する箇所はない。なぜ、このような文脈を無視した解釈がまかり通っているのだろうか。
このような解釈をする人々は、つじつまあわせに、「預言の二重性」という奇妙な解釈を適用する。つまり、これは、ユダヤにおいて紀元1世紀に起こり、終末にもう一度起こると考える。しかし、聖書の他の箇所において、そのような二重の適用を許す箇所は存在しない。これは、預言の私的解釈であって、重大な罪である。例えば、旧約聖書のヨナ書のニネベの人々への審判の預言をその他の時代に適用することができるだろうか。これは、紀元前8世紀のアッシリアのニネベの住民に対する預言であって、それ以外の人々に向けられたものではない。ヨナが「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」(3・4)と叫んだのは、もっぱら当時のニネベに住む人々に対してであって、それから2800年後の日本の大都市に住む人々に対してではないのである(もちろん、教訓としては、ヨナ書は、我々のために記されたとも言えるが、預言の直接の対象はあくまでも当時の人々だけである)。
マタイ24章は、ユダヤ人への裁きが近づいていることを示すために、紀元1世紀のパレスチナに住むユダヤ人に対して書かれた。ユダヤ人は、長い間、罪に罪を重ねていた。神は、何人もの預言者を彼らに送り、最後にご自分の御子を送って悔い改めを迫られたが、立ち返らなかった。それゆえ、主は、彼らに滅びを宣告された。23章には次のような、裁きの宣告が記されている。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。(37−38)
ユダヤは、主を否定した。そのために、主は、彼らの国を滅ぼし、彼らを全世界に散らされたのだ。それは、紀元70年に成就した。
紀元70年に、イエスの預言の通りに神殿は崩壊した。24章の前兆が、ことごとくこの動乱の中で実現した様子は、歴史家ヨセフォスが『ユダヤ戦争』(
ii:xiii:2-6, v:ix:4, ii:xiii:2-6, v:x:3等)において詳しく記している。にせキリストの出現、戦争のうわさ、ききんと地震、迫害、背教、にせ預言者の出現、道徳の退廃と愛の欠如、福音の世界伝道、神殿に「荒らす憎むべき者」が立つ、すべてがこの時期に起こった。さらに、前兆(しるし)を列挙した後で、イエスは、しめくくりとして、次のように語られた。「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(34)この個所は、プレ・ミレの大患難時代未来説を徹底的に粉砕する。なぜならば、この「時代」と訳されているγενεαという言葉は、「一世代(つまり、各世代によって通常占められる時間)、
30年から33年の間」(Thayer's English-Greek Lexicon. N.T)という意味だからである。つまり、「イエスが生きていた同じ世代」が過ぎ去る前にこの前兆が起こるとイエスははっきりと言われた。ここからどうして、大患難は未来に起こると言うことができるだろうか。
大患難は、紀元1世紀に成就した。これから、世界において、24章の大患難は起こらない。教会が、これから弱くなって、反キリストの支配下に入る、というストーリーも、この箇所から読みとることはできない。むしろ、教会は、キリストの主権の元にその勢力を拡大し、全世界に広まる。そして、あらゆる権威や権力がキリストの主権を受け入れるようになる。「そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちた。」(ダニエル2・35)
01/06/22