前千年王国説は反文化である

 

 前千年王国説は、「世界がクリスチャンの活動によってよくなっていくと考えることはできない」と考え、「再臨のキリストが千年王国を造ってくれるのだからそれまで待て」と説く考え方である。

 

 わたしはこれをウルトラマン終末論と呼んでいる。

 人間がやってもダメだからウルトラマンが来るのを待とう!と言っているのと似ているからである。

 

 もし、人間がやっても無意味であって、神が直接にいろいろなことをやってくれるのであれば、人間の創造そのものが無意味であるということにつながる。

 

 人間は地を従えるために創造されたと聖書は述べているのだ。

 地を従え、世界を神のために統治することが人間の本質的な使命であるから、人間は神の姿に似せて造られたのではなかったか。知性や運動能力、感情が与えられたのは、人間が努力して神の支配をこの地上に拡大するためではなかったか。

 

 もし、神がすべてやってくれるならば、人間は何故現在生きているのか?この手や足や頭脳は何のためなのか?全部やってくれるなら、何をやっても無意味だということにならないだろうか。

 

 例えば、聖書学者は論文を書いて、どれが正しい聖書の意味かを論じる。組織神学者たちは、正しい教理を求めて、互いに議論し合う。人間は苦労し、努力して真理を探ることが、神の御心だからだ。神が直接に教えてくれるならば、聖書など不要なはずだ。

 

 実験や観察、推論、論文発表、議論などを積み重ねて行われる科学的知識の探求はすべて空しいのだろうか。

 

 実際、前千年王国説に立てば、そう結論せざるをえない。

 前千年王国説は、反文化である。前千年王国説は、この世界がいままで積み重ねてきた文化的営為は、最後に反キリストによって飲み込まれ、最後にはすべて火で焼き尽くされ、灰燼に帰すると考える。しかし、聖書が述べているのは、火で焼かれるのは、神に敵対する罪の業であって、クリスチャンが神のためになした業まで焼かれるとは書いていない。それは、火の試練の中で残るといわれている。

 

「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(1コリント3・11−15)

 

 もしクリスチャンの善行までもがすべて焼き滅ぼされるならば、それはニヒリズムである。事実、前千年王国説の牧師たちは、「この世の仕事をしても、天国にまで持っていくことはできませんよ。この世の業はすべて過ぎ去り、すべて滅ぼされてしまうのですから。そんな空しいことに人生を浪費するのではなく、皆さん永遠に残る魂の救いのために献身してください。」と説く。わたしは、このようなメッセージを数限りなく聞いてきた。

 

 前千年王国説が述べる破局的終末は、クリスチャンの善行も含めてあらゆる業が焼き滅ぼされると説くので、反文化、カウンターカルチャーなのだ。だから、前千年王国説のキリスト教は、ニューエイジ運動と似たような雰囲気を持っている。韓国の有名な牧師は、「再臨が近いので、お墓も建てるな、家も建てるな。」と言った。あるアメリカの大衆伝道者は、「もうすぐ再臨が近いので、牧師よりも宣教師が必要です。早く一人でも救いに導くことが緊急の課題です。」と述べた。人間が正しく労働し、理論的にものを考え、議論し、学問を発達させ、社会を改革し、社会正義を実現することが大切だ、という考えがこのような説教から生まれるだろうか。実際、前千年王国説の説教家には、「神学ではありません。聖書が何を言っているかが問題なのです。」などという反教理的、反知性的なことを言う人々が多い。このような文化的営為を否定せざるをえないような説教によって育てられた人々が、陰謀説や、オカルトまがいの神秘主義的ヒーリングや異言、預言などに走ってもしかたがない。

 

 前千年王国説は、クリスチャンから未来を奪っている。クリスチャンに対して、「この世にかかわずらうな。」と教えているので、人々からまじめに努力して勉強したり、仕事をしたり、子育てをする動機を奪っている。教会に集まった若い人々を惑わして、ハルマゲドンが近いとか、どこそこに反キリストと思われる人間が現れたそうだ、とか、これから終末まで起こる事件はこれこれだとか、そんな話題に没頭させている。これは、オウムとあまり変わらないではないか。

 

 聖書は、徹頭徹尾、「人間は、地を従える使命を与えられた」と述べている。「神の御心が地上でも行われる」ように祈り、「全世界の国民を弟子とせよ」と命令に従い「御国が来」るように努めねばならない。

 

 キリストは、クリスチャンの文化的営為によって万物が回復するまで天にとどまっていると述べられている。万物が回復し、神の敵がキリストの足台になるまでキリストは神の右に座しておられる。

 

「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・21)

 

「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」(使徒2・35)

 

 

 

 



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