多神教信仰だけで世界は成立できない
この世界が多神教の世界であると考えるか、それとも唯一神の世界であると考えるかは、人間にとって最も根本的な問題である。
多神教の世界
----文字通りの多数の神々をまつる世界、もしくは、現代民主主義のように社会の構成員が価値の最終決定を行えると考える世界----だけを前提とするならば、社会はまったく機能しなくなる。
(1)宇宙に普遍的な法は存在しない。殺人が悪であるということは万古不変の真理ではない、と考えるので、社会に統一性を求めることが不可能になる。それぞれの地域、分野において、別々の主権者がいるということは、それぞれの地域、分野において別々の法が存在するということに等しい。ここにおいて、罪という概念は消える。
ある地域において殺人は犯罪であっても、別の地域において殺人は犯罪ではない。このような概念は人間の本性にとってふさわしくない。人間は、殺人を許容する国家の滅亡を心から望むものだ。水戸黄門が人気があるのは、人間の本性の中に、最終的な義を待ち望む心が存在するからである。最後には、善が悪に打ち勝ってほしいと願うのは、人間の本能である。
多神教は人間の義の本性と矛盾する。
(2)科学は成立しない
科学は、いつでもどこでも同じ法則が支配しているという信仰を前提として成立する。それぞれの地域において別々の法則が成立するという多神教のもとにおいて科学は発展しない。ある法則を発見しても、それが別の場所において通用するかどうかわからないのであれば、それに、普遍的な価値を与えることはできない。
科学がもっぱらキリスト教世界において発達したのは、唯一神によって全宇宙が支配されているという信仰があったからである。
(3)歴史を楽観的に見ることができない
多神教において、神々はそれぞれの領域を支配するのであり、統一した世界は本質的に存在できず、しかも、彼らは絶対者ではないから、有限者としての無力さを常にかかえている。
すなわち、唯一神教の場合、神以外はすべて被造物であり、神よりも弱い存在に過ぎないので、勝利は神の手に確実に握られている。
しかし、多神教の場合、どの神々もけっして勝利できるだけの権威をもたないのであるから、この世界において善が勝利し、悪が敗北することを期待することはまったくできない。
事実、ゾロアスター教やマニ教においては、世界は善神と悪神が永遠に対立する舞台であると考える。
キリスト教は、世界はキリストの礼拝の場所として作られ、その目標に向かって前進している、と考える。
悪魔がどんなに陰謀をめぐらしても、神の小指によって簡単に覆されてしまう。
悪魔は陰謀によって悪者たちを動かし、キリストを十字架にかけ亡き者にし、勝利を確保したと思ったが、実は、その策略は、逆に神によって利用されてしまった。キリストが十字架にかかることによって、全人類の贖いが達成された。悪魔は知らぬ間にこの神の永遠の計画を実行するために利用されていた。
十字架はサタンの勝利ではなく、神の勝利である。
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今日の民主主義という名の多神教の世界において、善が勝ち、悪が負けることを確信することは不可能である。それでは、人々は何に頼っているのであろうか。それは、自分の力である。
しかし、人間の力などたかが知れている。
人間は、この宇宙の中において、ごくまれにしか存在しない温度の範囲内に棲息していることを忘れてはならない。
人間は、プラスマイナス
40度以上になればとても生活できない。絶対0度から何万度という高温の宇宙の中において、人間が棲息できる範囲はきわめて小さい。この微妙で奇跡としか思えないような地球環境の中において、奇跡的に存在しているのが人間である。
神が地球の軌道を少しだけ外や内にずらしただけで、世界は大混乱に陥る。
自分の力に頼るなんて言っているのは、神を知らないからであって、ひとたび神を知れば、そのような自信など吹き飛んでしまう。