婚前交渉は罪か?2
Q.
たいへんありがとうございます。富井さんのおっしゃられるように今の日本ですすんでいる性の暴走はひどいものがありますね。東京も本当に大バビロンといった感じです。こうした世界で多くの青年男女が傷つき本当の愛が育めないでいることを思うと、キリスト教伝道がいかに難しいかということを感じます。
しかし、どうして不倫(妻や夫がいるのに他の相手とセックスすること)や、同性愛、買売春に関して明確に新約聖書に禁止が書かれているのに、婚前交渉については明確に書かれていないのだろうか?と思います。同時に自分は新約の時代でも旧約の律法に縛られるのだろうか?と疑問に感じます。例えば、レビ記にある病気の人に対する律法などを守れば、当時いくら必要な神の律法だったとしても、新約の時代においてはキリスト教の精神に反することになるでしょう。ほかにも生理中の女性を汚れた存在として扱うのは、もしかすると新約の時代にはそぐわないと感じられます。
新約の時代においても旧約の時代の律法を守る必要があるのだとすれば、どういった律法を守る必要があるのか、またその基準は何なのかということを教えていただけたら喜びます。ここの点がはっきりしないと自分にとっては、旧約の律法を根拠に婚前交渉が新約の時代においても禁止される理由が納得できません。ご説明いただけたら喜びます。
A.
旧約律法は、新約時代においても、義の基準として有効です。イエスは、「律法は天地が滅びるまで一点一画たりとも廃棄されることはない」と宣言されました。パウロも「信仰は律法を確立する」と述べました。
しかし、それでは、すべての旧約律法を新約時代に生きる我々も字義通り守る必要があるかというとそうとは言えません。下記の律法については
21世紀に生きる日本人が字義通り守る必要はありませんが、しかし、律法は「一点一画たりとも廃棄されることはない」と言われているのですから、その本質は守る必要があります。(1)キリストの予型であるもの
旧約聖書においてキリストの予型であった律法は、キリストという本体が現われたので無効となりました。例えば、動物犠牲は、キリストの贖罪を示すモデルであり、キリストが一度限りの犠牲を捧げられたのですから、もはやそれを実行する必要はありません。しかし、我々は、キリストという犠牲を捧げること、すなわち、イエスを自分の救い主として受け入れ、日々罪を犯すときにイエスの名によって赦しを求めることはしなければなりません。
(2)民族的律法
旧約律法にはユダヤ人という民族を神の民として選び分け、神の御名に相応しい生活をさせるために制定された「民族的律法」があります。例えば、カナンの人と結婚してはならない、穀物をこなしている牛にくつこをはめてはならない、親山羊の乳で子山羊を煮てはならない等の律法は、今日の我々にとって字義的に守ることはナンセンスです。このような、古代イスラエルの人々にとって重要であるが、今日それを字義どおり守ることにいかなる意味もないような地理的・時代的に特殊な民族的律法は、神が御民を民族的に取り扱った「民族的経綸の時代」にだけ適用できるものであり、今日のように「超民族的経綸の時代」においては、その律法の本質を読み取り、その本質を守るようにするだけでよいのです。当時の世界において、カナンに住む人々は道徳的に極度に堕落しており、神の死刑宣告が下されていましたので、彼らといかなる縁を結ぶことも禁じられていました。もし縁を結べばそれが罠となってイスラエルは堕落することが必至だったのです。これは、我々においては、道徳的堕落から自分の身を守るために、堕落し、価値観のまるっきり違うノンクリスチャンと結婚やその他のくびきをともにすべきではないと解釈できます。
また、穀物をこなしている牛にくつこをはめてはならないというのは、当時イスラエルの農業社会においては適用できますが、今日都会生活をしている日本人のように牛を飼っていない人々にとっては文字通り守ることは無意味です。我々は、この律法のエッセンスを取り出して、「働き人が報酬を得ることは当然である=労働者にはしかるべき賃金を払え」という戒めとして理解しなければなりません。親山羊の乳で子山羊を煮るという行為は、当時周辺の異邦宗教が豊穣祈願の儀式として行っていたとされており、「神以外のものに頼り、祈り、それに願いをかける」行為を禁じていると理解できます。
そのほかにも、死人に触れるな、地を這う生き物を食べるな、という戒めは、神の民は生命の民であるから、死と無縁の生活をしなければならないということを教えています(地のちりは死後の肉体が帰る所ですから、死を象徴していると考えられます)。神の民は、神によってよみがえらされ、生命の神に属する者となったのですから、死とは無縁の生活を送らねばなりません。どんなときにも、絶望してはならず、いつも希望を持ち、楽観的に物事を考え、活力にあふれた生活をしなければなりません。
そのほか、清い食べ物と清くない食べ物の区別は、この世界には「倫理的に清いものと清くないものとが存在し、神の民は清いものだけを受け入れるべきである」ということを象徴している(イエスは手や皿を入念に洗うが心が汚れているパリサイ人たちを叱責された)ので、今日豚肉を食べることが悪であるとは考えられません。神が清めた「不浄の動物」を見せられ、それを食べることを拒否したペテロに対して「神が清めたものを清くないといってはならない」と言われたように、十字架の贖いによって万物が和解され清められた後の時代である今日、我々がこのような旧約律法の食餌規定を守る必要はありません。
生理中の女性の隔離や、らい病人の隔離、様々な洗いについての規定、割礼等は、同じように倫理的に清いものと清くないものの区別を象徴していますが、食べ物と違って、衛生的な意味も含まれるため、今日において、もっぱら衛生的な理由からこの戒めを尊重する必要もあると思います。事実、ユダヤ人はこれらの衛生律法のおかげで、
14世紀のペストの大流行に巻き込まれずにすみました(しかし、ユダヤ人だけがペストにかからないため、異邦人のねたみを買い、ペストの主犯として虐殺されたという悲劇が起こりましたが)。ユダヤ人は割礼をしているため、ユダヤ人の女性には恥垢が原因で起こるとされる子宮頚癌が少ないというデータがあります(http://www.path.ne.jp/~millnm/obedhel.html)。先のメールで挙げた婚前交渉についての律法(未婚の男女がセックスをした場合、男性は女性に花嫁料を払って必ず娶らねばならない。申命記
22・16-17)は、ユダヤ人の民族的律法であるというよりも、結婚に関する普遍的な意味を持っていると考えられます。なぜならば、結婚は時代や民族や地域などを越えているからです。この律法を見るときに、結婚とセックスを神はどのようにご覧になっているかがわかるのです。聖書は、夫婦とは「一心同体」であると言います。
「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
(マタイ19・5)ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。(マルコ
10・8)「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
(エペソ5・31)夫婦は結婚の契約を結んだ時から心身ともに一体であり、ふたりではなく一人になります。その契約的しるしがセックスです。これは、信仰の契約において、クリスチャンが互いにキリストの身体として一つであることのしるしとして同じパンとぶどう酒を飲むのと同じです。セックスは契約的儀式であり、それゆえ、結婚関係にない者同士がセックスをすることは、クリスチャンでもないのに聖餐式に与るのと同じように不適切なことなのです。信仰の契約にふさわしくない者(罪を犯して悔い改めない者、未信者)が聖餐に与るならば、異物が正常な身体に混入することになりますので、身体全体にとって有害です。クリスチャン個人は、一つの体の一部なので、一人の罪が全員に影響を与えます。そのため、主はその個人を裁き、排除しようとされます。
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
(第1コリント11・27-30)聖餐が単なる食事ではなく、キリストとクリスチャン同士との一体化の儀式であるのと同じように、セックスも夫婦の一体化の儀式なのです。それゆえ、売春婦と関係を持つことは、自分の体を売春婦と同じにし、なおかつ、自分とつながっているすべてのクリスチャンの体も売春婦の体としてしまい、教会全体に害を与えることになります。
遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。(
1コリント6・16)あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
(1コリント6・15)神は、聖餐に与る者をキリストの体の一部とみなされるように、セックスをした者同士を一人の人としてみなされます。人間がどのように感じようとも、この事実を否定することはできません。
このように、セックスは異なる個人同士を一体化する行為なのですから、霊的に一致していない人間同士がセックスをするのはふさわしくなく、もしセックスをしたならば、結婚をすべきです。セックスをした未婚の男女はそれゆえ、結婚をするならば、ふさわしい状態になったことになり、刑罰を逃れることができます。しかし、一体化すべきではない相手(=既婚者や売春婦)と関係を持つならば、セックスそのものが違法行為以外ではありえないので、刑罰を逃れる術はありません。
さて、それでは、結婚を前提とした婚前交渉は許されるのでしょうか。最近、結婚前に同棲するクリスチャンの事例をよく耳にしますが、それは、間違いだと言えます。
信仰に入る前にバプテスマを受けるのが異常であるように、結婚する前にセックスをするのは異常です。
「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」(マルコ
16・16)「信じてバプテスマを受ける」…この順番は大切です。まず信仰が先であり、信仰を持った者がバプテスマを受けるべきです。バプテスマを受けただけで信仰のない者は救われませんが、信仰を持った者は、バプテスマを受けなくても救われます。十字架のイエスの横にいた強盗はバプテスマを受けることはできませんでしたが、救われました。
申命記
22・16-17は、結婚抜きのセックスに御墨付きを与えるものではありません。あくまでも正当な順序は、相手の女性の父親(その女性にとっての権威)の承諾を得て、それから結婚することでしょう。花婿を表すヘブライ語は「割礼された者」という意味を持ち、花嫁の父(すなわち、義父)を表すヘブライ語は、「割礼を施した者」という意味を持ちます。もちろん、ユダヤ人男性は全員生後
8日目に割礼を受けていますから、これが文字どおりの割礼でないことは明らかです。これは、花嫁の父は、自分の娘の夫となる人物の信仰をチェックする役割を持つことを意味しているのです。本当に相手が信仰を持ち、神の契約の中にいる人間であるかどうか、その人物を調べなければならないのです。チェックに合格した者がはじめて結婚できるのですから、結婚→セックスの順番が正当であることは明らかです。
01/12/12