現在志向と未来志向
ここ数年、ずるいことを平気でする人々とかかわっている。
ウソを平気でつく、車を買っても代金を払わない、人を貶めるような虚言を吐く、人のものを勝手に使って返さない、労働者に賃金を払わない・・・。
こんな人々を見て思うのは、彼らの共通する性格は近視眼であるということである。
彼らは、現在の快楽を第一に優先し、先を読むことができない。
ウソをつけば当座は自分の利益にはなるが、長い目で見ると、信用を失ってしまい、取り返しがつかないことになるのがわからない。
聖書は、常に長期的な利益を求めることを薦めている。
キリスト教文化とは、現在を忍耐して将来に備える文化である。
自分自身、家庭、会社などが将来にどのような姿になるかに関心を集中する。
律法は、短期的な成功を約束していない。
律法を守れば、明日祝福がやってくるとは述べていない。
律法の遵守または違反の結果は、徐々にしかも確実に現実化する。
神の国の実現には、多くの労働と犠牲が伴なう。
一世代では、その結果が現われないかもしれない。
約束を受けたアブラハムは、その目でパレスチナの土地が自分のものになることを見ることはできなかった。
ヨシュアにおいてその約束が現実化したのは、
700年も後になってのことである。現在の成功だけに目を奪われている教会成長学がいかに聖書的ではないか、アブラハムの祝福観を学べばすぐに明らかになる。