私的解釈は避けられる
<ご質問>
言葉は人によって解釈される物です。
私的解釈なしに聖書を読むことが出来るのでしょうか?
<お答え>
英文を読む場合、英文の決まりをよく知っていて、こういう構造の場合にはこのような意味があるのだ、という知識を前提に意味を取っていきます。
聖書も同じように、聖書の決まりがあります(文法的に正しく、歴史的背景や文脈(読み手は誰?書き手は?書の目的は?話の流れと矛盾しないか?聖書全体の主張と矛盾しないか?)と調和させる、など)。
自分の先入主とか思想が初めからあって、それに基づいて聖書の個々の個所を読もうとする態度(speculation)は、英文の場合と同じように「私的解釈」になります。
英文解釈の勉強の目的は、このように「著者」の言わんとしていることは何かということを正確に読み取る技術を習得することにあります。
勝手な読み込みをしても試験でよい点を取ることはできません。
つまり、英文にしろ、聖書にしろ、正しい読み方とは、「著者の意図にできるだけ従う」ように努める読み方です。
ですから、私的解釈を避けることは全く不可能であるとは言えません。もちろん、完全に、まったく正しい解釈が常に可能だということは言えませんが。
キリスト教は、歴史を通じて、また、学者の議論を通じて、また、様々な経験を通じて、聖書全体を見ながら細部を研究し、細部を研究しながら全体を見ることを繰り返すことによって、徐々に正しい解釈と言えるスタンダードを見つけ出してきました。