人間の意志まではプログラムされていない
<T.Akkie氏>
「創造物は創造主の命令どうりに動く」というのは真です。
が、「創造物は創造主の思いどおりになる」というのは、創造主が命令の間違いをしない事を前提に、真です。
私はプログラミングを経験して、人間は間違いを犯すものであるがゆえに、後者の仮定「創造された物である」と結論「それが創造主の思いどおりになる」が食い違う事を痛感したのです。
しかし、神は我々のようにミスを犯しません。
となると後者は必ず正しくなります。我々が神に造られたのであれば、我々が神の望まぬ事をする事が出来るというのは人の傲慢です。我々がどれだけ神に逆らおうとしても、それは不可能です。ならば、「創造物は創造主の思うとおりになるべき」と言う必要は無く、「人は神の思うとおりになるものだ」と言うのが正解でしょう。喩えば、「1+1は2になるべきだ」と言うのではなく「1+1は2になるものだ」と言うように。
どうやってもそうなる事、つまり「−は−となるものだ」というのを、私は「真理」といいます。「−は−であるべき」という言い方が出た時点で、人の感覚が入り込んだ「偏見」になります。「人は神の思うとおりになるものだ」と言うのなら、いちいち宗教で「創造物は創造主の思うとおりになるべき」と説く必要は無いでしょう? どう足掻いても、「人は神の思うとおりになる」のですから。
<tomi>
私も少しばかりプログラミングをかじったことがありますのでわかりますが、プログラミングの中でミスがあれば、プログラムは正常に作動しません。
ただし、プログラムのたとえで通用するのは、非人格的な機械だけです。
プログラムで動くのは、人格を持たない機械です。
人間が作ることができるのは、非人格的なものでしかありません。
だから、プログラムをしたらそのとおりに動く以外にありません。
しかし、神は、聖書の最初において「神は、ご自分に似せて人をお造りになった」と宣言しておられます。
人間は、神と同じように人格を与えられています。
それゆえ、人間は、神から善悪を選択する自由を与えられているのです。
例えば、人間には生存欲があります。お腹が減っているときに、おいしそうな食べ物を見れば、それを取って食べたいと考えるのは、そのように神がプログラムしてあるからでしょう。
塩分が不足しているときに、塩気のあるものを食べたくなるのは、人間の体内の生理的な状況と欲望の中枢が密接に関係するようにプログラムされているからだと思います。
しかし、人間はこのような生理的なプログラムだけで生きているのではありません。
目の前に美味しそうな塩ジャケがあっても、それが他人のものであるならば、それを無断で食べることは悪いことだ、という善悪の判断が働きます。
善と悪の区別や良心のとがめも神のプログラムに含まれていると考えられますが、しかし、善と悪のどちらかを選択するのは人間の裁量にまかされているのです。
つまり、この例の場合、
(1)生理的な状況と欲望
(2)善悪の判断、区別
(3)善と悪とどちらかを選択する行為
という要素に分解すれば、
(1)と(2)は神のプログラムの中にあると考えることができますが、(3)までもが神のプログラムの中にあると考えることはできません。
もし、(3)が含まれるならば、人間が(神が禁じる)悪を選択した場合、
神は、悪を選択するようにプログラムしたのだから、人間を裁くことができない!神こそ悪の根源である!
という言説が正しいということになります。
しかし、もし、この言説が正しいことになれば、この世界は混沌化します。
「酒鬼薔薇」が生首を校門の上に飾ったのは、神がそのようにプログラムしたからだ、ということが正しいならば、神はその罪を裁くことはできませんし、神そのものが混沌の主であるということになり、人生や世界から意味は完全に消え去ります。
つまり、私もあなたも、私の家族も、あなたの家族も、日本も世界も歴史も文化も、あらゆるものが「ジョ〜ダン」になってしまうのです。
世界にも人生にも意味はありません。意味を求める行為は、けっして美しい行為でも価値あるものでもない。貧者のために命をかけて奉仕している人も、貧者を奴隷として売りさばいて、ピンはねしている奴隷商人も等しく冗談です。
しかし、考えてみてください。
物質の構造、生物や世界の精緻な仕組み、宇宙の壮大さ、夕焼けの空の美しさ、草花の可憐さ・・・。
こういった世界が、酒鬼薔薇の行為をプログラムした存在によって創造されたと考えることはできません。
つまり、この二つの間には大きな隔たりがあることに私たちは気づくのです。
美しく壮麗な世界と、その中で起こる邪悪な出来事との間には矛盾があると。
この矛盾を解決するのは、キリスト教の世界観だけです。
つまり、「この世界は初め神の完全なる御手によって創造されたが、人間が堕落したために世界の中に罪が入り、死が入った。」と。
「この世界に、異常で醜い罪が入ったのは、人間が自分に与えられた自由意志を悪を選択するために用いたからだ」、と。